穏やかな死
すべての生命はその誕生が、生の始まりではなく死の始まりではないでしょうか。すべての細胞はそれぞれの時期がくると死に新しい細胞と入れ替わっていきます。ある意味で私たちは絶えず新しいからだで生きているとも言えるし、細胞の更新とともに絶えず死んでいるとも言えます。しかし、歳を重ねていくと新しい細胞を作る自然の力は死んでゆく細胞のスピードに追いつけなくまります。そしてある日、更新のプロセスが停止して私たちは物質界における死を迎えます。
私は死後の世界を信じていますがそれがどんなものか誰にもわからないと思います。その手の本や話をする人はたくさんありますが。この世にいる限り本当の答えは決して得られないものだと思います。作家、立花 隆 氏の著書 “臨死体験” でも世界中の死後の世界を体験した人たちの話が書かれていますが、体験者たちは現世に帰って来ており、本当に死んだわけではないので (本の中では臍の緒つきの死という表現になっていました。なるほど・・・) 実際の死後の世界というものは死んでみないことにはわからないと述べられていました。私も同感です。
現世にいる間、私たちにはパーソナリティーがありますがそれは物質界での創造物ですから死とともに消滅します。しかし、私たちにはもうひとつ、生命力(魂)があります。その本源は同じでしょうが、それぞれが独自性のあるものでありDNAパターンのようにまったく同じ生命力パターンも存在しないでしょう。
生命力は肉体が死んでも存在し続け、何らかのかたちをとってこの世に戻って来るでしょう。どんなかたちになるかはわかりませんが、私はそう信じています。
死はいずれ誰にでもおとずれますが、そのときに自分が考えてきたことやおこなってきたことを振り返ります。愛のある生活をしてこなかった人は自分の人生の空しさに気づかされ、これから直面するかもしれない未知の世界に恐れおののき、死にたくないと思うでしょう。愛のある生活をしてきた人はしとやかに、優雅に、ゆるぎなく、安らかな死を迎えるはずです。
人は生まれるときも死ぬときも一人です。だから生きている間に多くの人に愛を与え、また、与えられ、助け合い、思いやり、愛情を学びます。しかし、愛情のあるところには必ず悲しみが存在します。愛情が深ければ深いほど悲しみも大きなものとなります。人生に起こるすべての苦難、すべての悪夢、神が下した罰のように見えるすべての試練人として成長するための神からの贈り物だと思います。成長こそが命のただ一つの目的だと。 死は本人には新しい世界への旅立ち、あるいは創造主の元への帰還であり、それと同時に残された方々には人としての成長の機会を与えます。
肉体という殻の中で成長を成し遂げた魂は、役目を終えた肉体を抜け出し、自由体となってさらに長い命の旅を続けます。「死ぬ瞬間」の著者、エリザベス・キュブラーロスの言葉を借りれば、「まるで成長を遂げたサナギがその殻を抜け出し蝶となって羽ばたいて行くように」。存在するのは物質としての肉体の死だけであり、命の終焉は存在しないのでは。そのことに病気で死が目前に迫っている人や、最愛の人に先立たれた人が気が付けば、大いなる安心の境地に至り、次の段階へと成長を遂げるのではないでしょうか。
魂はエネルギーであり、エネルギーが不滅であることは科学的にはアインシュタインが証明し、非科学的には世界の宗教が認めている事実です。物質(肉体)はいずれ消滅しますが、エネルギー(魂)は消滅しません。
般若心経に色即是空・空即是色と言う言葉が出てきますが、これこそ物質(肉体)はエネルギー(魂)であり又エネルギーは物質であると言っているのではないでしょうか。エネルギーは多くの人の五感では感じられませんが必ず存在します。