つながり≠もとう !
つながりをもとう !
人は世界から孤立分離した状態のままで、健康を満喫することはできません。健康とは全体性のことであり、全体性とはつながり《家族・友人・部族・国家・人類・地球》とのつながり、また、いかなる超越的な存在であれ、その人が宇宙の創造主だと考える高次の力とのつながりのことです。
人間の苦痛や病気の大半は自己中心的な考え方から、自我という狭い世界を越える能力の欠如から生じています。例えば、私たちの多くは変化を苦痛だと感じ、配偶者の死・失恋・立ち退きといった大きな変化に遭遇すると病気になったりします。それ程までに変化を恐れ、変化を苦痛に感じるのはなぜでしょうか。最大の変化は死ですから、変化一般への恐れは死への恐れからきているのではないでしょうか。死は自我にとって究極の脅威であり、変化への恐れをつくり出すものは自我意識でしょう。
抑うつ・怒り・孤独をはじめとする否定的な感情、免疫を抑制し神経系のバランスを狂わせる感情もまた、自分は世界から孤立分離した存在であるという意識に根差ししています。世界との豊かな 《つながり》 がもてない人が病気になりやすいという事実を立証する医学データはいくらでもあります。何げない会話の中で「私が」「私に」「私の」という言葉を使う頻度と、心臓発作を起こす頻度には相関関係があるという研究もあります。
健康とは単に肉体が丈夫であるということではありません。心もからだも良好な状態で人生全般にわたって配慮が行き届いている状態を意味しています。だれしも世界から孤立して生きてゆくことは出来ません。世界に対して配慮が行き届いている人は世界からそれだけ多くの授かり物を受けることにもなります。
《自然や地球とのつながり》
自然を自分とは分離した、敵対する力だと考える人は、不必要な恐れを抱きながら生き、精神の重要な栄養源のひとつを断たれることになります。大自然の中に踏み分けて行って自然とつながるときはもちろん、昼休みに公園を散歩しているときも、こころのリズムをスローダウンさせれば、自然が見せてくれる無限の多様性を観察することができます。この地方では植物とのつながりを大事にしている方が多く見られます。畑や庭いじり・盆栽・野生植物の採取など。植物は私たちの生活に潤いを与え、慰めと喜びをもたらし、どう否定してみたところで、自分もまた自然界の一部であるということを思い出させてくれます。
《動物とのつながり》
ペットを飼っている人は飼っていない人より病気になりにくいということを裏付ける科学的研究はたくさん有りまが、そんなことは心のある人なら、とっくに知っていた常識です。
ペットを飼っている人は重症の病気になっても治りが早いということも立証されています。米国の元受刑者を対象にした調査では、ペットを可愛がっていた人の方が、ペットとは無縁だった人より再犯率が低いそうです。ペットとは責任を負うべき対象のことなのです。どうしても最低限度の愛情と世話を必要とします。その代わり彼らから受ける恩恵には計り知れないほど大きいものが有ります。彼らは、よく笑わせ、ときには怒らせ、常に無心の心を教えてくれます。
動物を慈しみ、その世話をすることはいい修行になります。よく、誰かがペットを溺愛していると冷やかしたりすることがありますが、一方的な愛などは存在しません。
人が動物に愛を与えれば動物は人に愛を与え返します。そのプロセスによって人も動物も生命力を豊かにしているのです。
《家族とのつながり》
現代の核家族化が進む中、祖父・祖母・夫婦・子供・孫・・・・がひとつ屋根の下で暮らすと最近では大家族とか拡大家族といわれますが、これが普通の家族ではないでしょうか。核家族こそ縮小家族そのものです。人は真の家族という親密な支えを必要としています。だからこそ異文化の「拡大家族」を、羨望とはいわないまでも一種のあこがれをもって見てしまうのでしょう。
米国の医療センターで小児科の集中治療室で働いていた看護婦さんの話を書いた資料が有りましたので紹介します。
彼女はそこで、どう見ても致命的な頭部損傷から奇跡的に助かった子供を12人ほど見てきました。オートバイや自転車による事故で深い昏睡状態にあり、脳波が平坦化(重篤な脳機能障害の指標)し、担当医から絶望視されていた患者ばかりです。治療室の外では、腎臓や心臓の摘出を待つ臓器移植チームがうろうろしていました。ところが、医師の驚きと臓器移植チームの失望を尻目に、極限状態から脱出して意識を回復し、蘇生した子供が12人もいました。その看護婦が注目したのは、全員がラテンアメリカ系であったということです。彼女いわく、 「 同程度の重傷を負ったアングロサン系の子供で、助かったケースは一件も有りません。その違いがお分かりになります? ラテンアメリカ系の子供が昏睡状態になると、家族全員がベットのまわりに集まるんです。夜も昼もずっとですよ。そして患者に話しかけ、患者のためにお祈りをして、みんなでその子に愛を注ぐんです。アングロサン系の子供は一人です。集中治療室のベットにひとりぼっちで、意識を失ったまま横たわっているんです」
私たちは本来、孤独な存在ではないのです。本来はより大きな家族・集団・部族の一部です。核家族に縮小してはいけません、拡大しましょう!
《男女のつながり》
よく、すぐにのぼせ上がる人を見受けます。物事を注意深く見ず、よく考えない。ちょっと目に付くものがあると、もう探すのをやめてしまう。そういう人は物事の表面だけを見てその奥にあるものについて考えようとはしないのでしょう。
永続的関係を望むのなら見かけやひとときの魅力だけで人を判断してはいけません。
あなたの近くに何かあたたかいものを発散しているような人、そのあたたかさに何か特別なものだと感じさせる人。まるでその人に包み込まれるような、心から歓迎されていることが実感できるような感じがする人はいないでしょうか。
顔やスタイルの美しさに対する幻想を捨て、こころを美しい魂のほうに向けない限り、恋愛も結婚も長続きすることはありません。
《身体的接触》
人は他人に触り、他人から触られることを必要としています。動物実験でも人間に対する研究でも、身体的な接触を断たれた固体は不安になり、適応力が低下し、病気になりやすいという結果が出ています。さまざまな文化にわたる研究でも、性的な抑圧や人との身体的接触が断たれた社会が暴力を生みやすいということが分かっています。私たちの社会もその範疇に入ります。
いうまでもなく、セックスは数多い身体的接触の一種でしかありません。しかし、性的な抑圧が強い私たちの社会では、身体的接触が意味するものが不当に誤解されています。私たちの多くが相手に触られることを性的な関心や期待の表現だと考え、それを忌避したり、優しい抱擁がほしいだけなのに性的な関係をもってしまったりしています。愛を込めて相手に触れることはつながりの一形態であり、慰めや癒しを与える神秘的な行為でしょう。その行為を上手に生かすには、セックスとの連想という条件づけから自分を解放しなければなりません。
欧米では夫婦・親子が手をつないで歩いている姿をよく見かけますが、我が国では夫婦が手をつないで歩いている光景を見かけることはほとんどありません。手をつなげののは恋愛中だけなのでしょうか。家族・友人をもっと抱擁しましょう。触ることは気持ちがいいことですから、つながりをもつには格好の方法です。どうかもっと人に手を触れて見てください。
最近の病院の診察は患者に手を触れることなく画像や数値だけで診断されることが多いように思います。患っている人には“手当て”が必要ではないでしようか。
《高次の力とのつながり》
宇宙空間に存在するすべての物は自分より偉大な力とのつながりをもっています。その高次の力をどんな存在だと考えるかはさほど問題ではなく、問題はそれとつながっているという実感がもてるかどうかです。高次の力は神でも、仏陀でも、イエス・キリストでも、女神でも、主客身分の純粋意識でも、単に神秘であってもかまいません。どんな宇宙を考えようが、その宇宙で自分のいる位置をどこに置こうが、それは自由です。自分が自分より大きな何かの一部であり、それに支えられていると実感している人が、自我という檻越しに世界を眺め、世界と自分とは何のつながりももたないと感じている人より恐れの感情が少なく、健康なのです。
《礼と返礼》
呼吸の神秘でも述べましたが宇宙はいくつかの法則にしたがって存在していますが、基本になるのはやはり両極間のバランスの取れたリズミカルなやりとりでしょう。簡単に言えば 「礼あれば返礼あり」 つまり 「与えれば与えられる」 ということでしょう。しかし、残念なことに今の世の中は 「相手よりまず自分」 「相手の気持ちより自分の利益」 といった自己中心的な人が溢れています。その人たちは既に与えられているものでは満足できず、それ以上のものをほしがっています。また、与えられたものを返そうとする気持ちもありません。自分のもち分以上のものを期待し、それが得られないと損した気分になります。
人のために何かをしたとき、感謝の手紙が届くとしたらどうでしょう。誰かを懐かしく思うたびにその人があなたのことを思うとしたら? 誰かを助けるといずれその人がほかの誰かを助けるとしたら?
良いことにしろ、悪いことにしろ、相手に対してしたことは最終的には自分に戻ってきます。好むと好むざるとに関わらず私たちの心は他者の心とつながっているのです。自分だけは何にも依存することなくすべて自分の思い通りにやれると信じている人もいるでしょう。しかし、私たちは皆同じひとつの生命力を分かち合ってるのであり、誰かに与え、また与え返すことによって私たちは自分の生命力の成長を助けているのではないでしょうか。
他者に与えたことのない人は見ればすぐ分かります。我が物顔に行動し、人のすることにいちいち難癖をつけます。そんな人はただ要求することしかしません。絶えず人を支配したいという欲求を捨てることが出来ないのです。
与えることの少なかった人は、よく与えた人よりも歳をとってから痛みやうずきに悩まされることが多いようです。否定的な行動が、からだの複雑な生理作用に悪影響を及ぼすのでしょう。ようするに、宇宙の法則に反した行為からは逃げられないということでしょうか。今は逃げられると思っている人もいつかはからだのほうが正直だったことを思い知らされる時がくるでしょう。