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仏像には当然の如く種類があります。
阿弥陀如来、大日如来、弥勒菩薩、地蔵菩薩、不動明王、毘沙門天、弁財天。 今挙げた名前を皆さんも聞いた事があると思います。 もちろんこの他にもいっぱい仏さまはおられますが、この名前を見て気づく事があると思います。
名前の後部、「如来」「菩薩」「明王」「天」というのが各々共通していますね。
この4種類は、仏の性質の違いからそのかたちも大きく違ってきます。 |
ホントは絵や写真で紹介したいのですが、本に載ってるものを勝手にコピーする訳にはいきませんし、許可とるのもめんどくさいので、なんとか文章から読みとって下さい。
どなたか使用してもいい仏像写真があればください。(うわ、他力本願) ちなみにこの「他力本願」という言葉、阿弥陀如来の本願(阿弥陀仏の名を称え功徳をつめば極楽に往生出来る)にすがって(他力)成仏しようとする事、「本願他力」からきてるんですね。
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如来部 |
如来とは出家解脱を示す姿で、ただ寒暑をしのぐに足るだけの衣をまとった姿であらわされます。
もし、ごてごてとした装飾を身に付け豪華な衣を身にまとっていれば、それは後に挙げる菩薩です。 ではなぜこの一見みすぼらしい如来を一番に紹介するかといえば、「如来」が、簡単に言ってしまえばいちばんエライ仏さまだからなのです。 その姿を簡単に紹介します。
髪型は、日本では螺髪(らほつ)が多いです。螺髪とは、パンチパーマのような、少しのびたちぢれ毛の事です。3世紀頃の南インドではじめられ、5世紀頃に北インドで完成された、由緒正しい表現技法なのです。
如来像を見ていると眉間にポッチがありますね。決して「ポチッとな。」とか言って押してはいけません。
手を見てみると、手には何も持たず、印相(いんぞう)、手で形(印)をとったもの、を示してますね。
で、印相に話を戻しますが、印相で仏の名前をあらわさない事もありますので、その辺を見分けるには熟練を要します。
余計な話が長くなってしまいました。 上に挙げた大日如来は、「仏菩薩など全てを統一する最高の王者の地位をあらわす」ものなのです。
なんか当初の趣旨と違っているような気がしますが、気にせず続けたいと思います。
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観音・菩薩部 |
菩薩とは菩提薩た(ガーン。漢字がありませんでした。「土」辺に、「垂」です。)の略で、「勇猛精進する修行者」の意味です。何かわからないけど凄そうです。ところで仏教用語というものは、ほとんどまともに漢字変換されず、探すのに一苦労なんです。挙げ句の果てに必死こいて探して漢字が無いなんて、まさに骨折り損のくたびれもうけ。私も「勇猛精進する修行者」といっても差し支えないんじゃないでしょうか。あ、駄目ですか。
話を戻しまして、その修行者とは「仏教の最高の段階にまで進んだ修行者」でありまして、未だ行を続けている凄いお方なのです。 で、姿はといいますと、顔や手がいっぱいあったり、動物に乗っていたり、多種多様なんですけど、特徴的な所を挙げてみます。 着ている衣は豪華絢爛、手足には金色の環をはめることもあり装飾は豊か、髪は美しく結い上げられ、その頭に宝石で飾られた宝冠を戴き、非常に美しい姿態をしています。
釈尊後、菩薩と名付けられるものは数を増していきますが、それらの菩薩は「仏教的理想を具体化したものを象徴する姿」として造られていきます。つまり、仏の頭がいい所だけを菩薩として表現してみたりしてるんですね。
菩薩像の最初は一面二臂なので、多面多臂の菩薩像は様々な発展を経て作り出された、後のものというわけです。 ところで、菩薩像は姿形が大変美しいんですね。
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明王部 |
明王といえば、皆さんご存じ(いやわからない方もそういう事にしといて下さい)、すっごい恐い顔した仏さまです。
今、帝釈天や毘沙門天を思い浮かべた方、惜しいです。彼らはこの後に挙げる「天部」の一員なのです。 天部の憤怒像はそれほど激しくなく、明王こそがKING OF 憤怒!の名を欲しいままにする仏なのです。 「なんじゃそりゃ」とは言わないで下さい。私にもわかりません。 ともかく、激しい憤怒形であらわされる明王ですが、それは「救い難い衆生を教化するほとけ」という性格を帯びているからなのです。
この明王、比較的新しい仏で、大日如来を中心とする密教から生まれた仏なのです。まあ新しいと言っても、今から1800年ほど昔の話なんですけどね。
さっきから脱線してばっかりで申し訳ないです。
おっと、言い忘れましたが、多くの明王の特徴は多面多臂は当たり前、目がいっぱいあったり、武器をいっぱい持ってたり、天部の仏を踏みつけていたり、背中には火焔までしょっちゃたりしてます。
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天部 |
天部の仏は仏教以外の宗教、例えばバラモン教などから入ってきた仏です。
これは仏教がインドで発展していた時期に、民間信仰の神々も根強く信仰されてまして、この民間信仰と仏教が互いに交流しあって生まれたものなのです。すでにB.C.2世紀頃には、民間の神々は仏教の守護神として考えられていたようです。 神とはいっても仏教では低い地位しか与えられてないんですね。いつの時代も余所者には厳しいですね。 天はこのように地位も低く軽くみられがちですが、中には単独で信仰されるものもあります。毘沙門天や弁財天がそうですね。いわゆる出世頭です。だからといって同期のねたみそねみを受けたりはしませんけど。 姿はといいますと、一言で言えば、自由な表現です。
天部の自由な表現は天女形だけではありません。毘沙門天のように甲冑を身に纏い武将の形をとる者や、風神・雷神に象徴される鬼神形、さらにはご尊顔がまるで鳥のようになっちゃってる方もいます。いや「ように」じゃなく「鳥そのもの」なんですけどね。お顔が「象そのもの」な方もいらっしゃいますから、鳥などは可愛いものです。 天は皆さん結構知っておられるんじゃないでしょうか。
とまあ、身近な所に天部の方はいらっしゃるんですね。
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次は仏さまを如来部から個別に見ていきます。 |