明王部

 
不動明王(ふどうみょうおう)
いわずとしれた、明王達の筆頭格にして最強の明王です。
つまり、大工に於ける棟梁、咸臨丸に於ける勝海舟といった所でしょうか。
こういう意味のわからない前フリは、無駄話への予兆です。
明王とは全く関係ないので、必要のない方は飛ばしてお読み下さい。
 

さて、棟梁といえば周知の如く、大工のお頭のことですね。
不動明王と同じく、一群のリーダーという訳です。
リーダーなら他にもいっぱいいるじゃないか、と仰る方は、ノンノン、もう少しガマンして聞いてて下さい。
急がば廻れ、狭い日本そんなに急いで何処へ行く。

数多のリーダーの中でも、棟梁は欠いてはならない存在なのです。
家は木(むなぎ)に(はり)を直角に渡す事で、頑強になります。
つまりは、家は棟梁によって形成されているとも言えます。
棟梁の重要性、おわかりいただけたでしょうか。

さて、その重要性と対に挙げたのが咸臨丸に於ける勝海舟です。
なぜだ?勝海舟を艦長に日本人のみで太平洋を渡り、見事渡米を果たした偉大な出来事ではないか!、と声を荒げられる方は、少々落ち着いて下さい。血管が切れますよ。

まずはご存じ無い方もおられるかもしれませんので、咸臨丸についてざっとお話します。
咸臨丸は、安政七年(1860)に幕府が日本初の遣米使節団を派遣する際、日本人だけの遠洋航海を試みようと、使節団一行の乗ったアメリカ軍艦ポーハタン号に随行したオランダ製の小型蒸気船です。
乗員は、提督に海軍奉行木村喜毅(よしたけ)、艦長は勝海舟、さらには福沢諭吉や通訳に中浜(ジョン)万次郎といった豪華な面々で構成されていました。
そして一行は、太平洋をわずか37日で渡りきり、ポーハタン号より先にサンフランシスコへと到着したのであります。
確かに、勝海舟が「外国人の手は借りず、アメリカへ行った。」、福沢諭吉も「これだけは日本国の名誉として世界に誇るべき事実だ。」と威張るのも無理のない快挙でした。

だがしかし実際のところ、言うほどスムーズな航海ではなかったようです。
咸臨丸が太平洋に出た途端、もの凄い暴風雨に見舞われました。
船が右へ左へと揺られるなか、船員は船酔いで前後不覚、艦長の勝海舟などは、ほぼグロッキー状態で船室から1歩も出なかったというありさま。
さらには、実は咸臨丸には、船が難破して日本に漂着したアメリカのブルック大尉以下11名が同乗しており、航海の大半は彼らのおかげなのでありました。
まさに大後悔時代。
ま、その後は日本人のみで品川に帰り着いた、といいますから汚名返上はできたようです。
ところで、たまに汚名挽回などと言っている方がいますが、挽回するのは名誉の方が得策かと思われます。

さて、この咸臨丸ですが、その後は小笠原諸島の測量や、老朽化後はエンジンも外され徳川艦隊に編入させられたり、時化(シケ)で漂着した所を新政府軍に没収されたり、波瀾万丈な人生を送っています。
そして、最後は北海道開拓史の船となり、北海道渡島の沖で座礁し全壊してしまいました。

ちなみに、当の勝海舟、船酔いを熱病だったと言い訳してみたり、先のブルック大尉からは「まったくものを知らない士官」と揶揄されたり、さらにはサンフランシスコ入港の際に提督の木村司令官の旗ではなく、自分の旗を上げると駄々をこね、そうかと思えば、帰途に際して別行動でワシントンへ行くはずだった木村司令官に「自分一人で艦を指揮するのは心もとないから、行かないで。」とワシントン行きを断念させるなど、我が儘の極み。
そして、帰国後には海軍をあっさりクビと相成り候。

と、勝海舟完全無欠のダメ男(関係者の方ゴメンナサイ)だったのですが、福沢諭吉は流石二期連続壱万円札だけあって立派でした。
例えば、大政奉還の翌年の慶応四年(1868)上野では新政府軍を相手に旧幕臣の彰義隊(しょうぎたい)が戦闘をしていました。
そのため江戸市中は混乱し、商売第一がモットーの店々もこの日だけは全て休んでしまいました。
しかし、大砲の轟音とどろく中、慶應義塾だけはいつもと同じく授業を開き、福沢諭吉は経済学の講義を続けていたという事です。
さらに、慶應義塾は戦地からは8Kmほど離れており、流れ弾が飛んでくる心配もないことから、塾生達は外が騒がしくなると、屋根に上り戦闘を見物していたといいます。
それにしても、この教育に対する情熱は敬服に値しますね。
今の慶応の学生さんが、この信念を脈々と受け継ぎ、開けた未来を目指して勉学に勤しんでおられれば幸いです。

余談ついでに、もうひとつ福沢諭吉と勝海舟の逸話をば。

福沢諭吉にはかねてから爵位授与の打診がありました。
しかし平民をもって旨とする信念の諭吉はこれを受ける事はありませんでした。
そこで宮内庁は代替策として5万円を贈呈しました。(当時の伯爵級)
しかし、その5万円もそのまま慶應義塾の基金にしてしまう無欲ぶり。

それにひきかえ件の勝海舟さん、子爵授与の話に「五尺に足りぬ四尺なりけり」と言って意地を張り、結局伯爵を授与させました。
屁理屈をこねて一階級アップさせた訳ですね。

さあ、貴方は信念を貫き通す諭吉タイプ?、はたまた我を貫き通す海舟タイプ?
どちらでしょうね。
 

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と、あやうくこの項を締め切る所でした。
まだ、不動明王の「ふ」の字にも触れていませんでした。

不動明王の梵名アシャラナータは、ヒンドゥ教シヴァ神の異名ですが、仏教においては大日如来の憤怒身(教令輪身、きょうりょうりんじん)とされ、明王の最高位に位置づけられます。
ちなみに、アシャラは「動かないもの」、ナータは「守護者」を意味し、「動かざる事山の如し」などと言われるように、動かないものの代名詞「山」の守護者とも解釈されます。後に不動明王が、盤石に座すのもこの関係から派生しています。

不動明王は、最初「不動使者」「不動如来使」と、大日如来の使いとして記されますが、「大日経」巻二の注釈「大日経疏」巻第九において「不動明王」と初出します。
この明王が大日如来の教令輪身である事、さらに利益効能が絶大である事により、不動信仰は広く広がります。
不動明王の主要な経軌では、「不動明王をわずかに少しでも常に憶念(心中に絶えず念ずる事)・思惟すれば、能く一切の障難をなすものとして皆ことごとく断壊せしめ、甚だ能く一切の事業を利益成就し、能く一切の障りとなるものを除く」と説かれます。

さて大人気の不動明王ですが、その起源はインドにあり、中国で展開したものでありますが、インドでの図像の作例確認されておらず、中国では唐代(八世紀頃)の作例が二、三知られるだけで、その信仰と造像は日本で最も盛行したと考えられます。
ですからインド旅行の際、物知り顔で「不動明王プリーズ」などと言っても、恐ろしく怪訝な顔をされるだけです。
その前に、「不動明王プリーズ」と言って何が出てくるか、ヒジョーに気になります。(日本人は何にでも、プリーズ、ソーリーを付けたがるそうです。)

そんな日本での人気の高いお不動様の図像展開は、大きく二期に分けられます。
はじめは平安時代初期、空海や円仁、円珍らが唐より招来した、両目開眼、上歯下唇を噛む初期図像となります。
次は、不動十九相観といわれ、左目を細め、上下の牙を噛み合う面貌であらわされます。
そして、不動の変化身である矜羯羅(こんがら)、制咤迦(せいたか、「咤」はかんむりを取ります)の二童子を脇侍とするのが特徴です。
この不動尊の代表例としては十一世紀中頃の絵仏師円心の白描図像があり、後世の不動像の多くはこの円心に倣った円心様不動を為しています。

円心のような立派な方に倣うのは、自己を高める意味でも非常に上策です。
しかし、「ひそみに倣う」のは下策も下策。
「ひそみ」とは言うまでもなく、顔をしかめる事です。
中国、春秋時代に西施という、それはもう美しい女性がいました。
他の女性達は自分も美しくなろうと、西施の一挙一動を真似したものです。(ここらは、今も昔も変わりなく。)
そんなある時、西施が身体を病み、顔をしかめて咳をしました。
これをみた女達、「あの顔をすれば美しくなれるのだわ!」といっせいに顔をしかめる始末。
そうして、この流行に敏感な女たちは、人々の物笑いのタネになりましたとさ。
その後、西施が「バッカじゃない。アンタたちなんかが私の真似をして美しくなろうなんて、100年ハワイアン。」と言ったかどうかは定かではありませんが(言ってません)、この事から、むやみに人真似をして嘲笑の的となることを「(西施の)ひそみに倣う」と言うようになったのです。

不動明王に話を戻しますと、上記の二童子の代わりに、蓮華童子を加えた三童子、八大、三十六大童子を配するものもあります。
もうひとつ、不動のチャームポイントは左肩に垂らしたおさげ。意外とカワイイです。
さらにもうひとつ、不動が右手に執る剣に、倶利迦羅竜(くりからりゅう)を巻き付かせたものがあります。
この倶利迦羅竜は不動明王の変化した姿として、祈雨・除災など単独で信仰される事もあります。

以上、経軌の上でも、見た目の格好良さでも魅力的な、不動明王様でした。

不動八大童子
先に挙げた、不動明王の眷属の八大童子です。
高野山金剛峰寺の八大童子像があまりに格好いいので、それを参考に初の絵付きで紹介します。
 
 
慧光童子(えこうどうじ)

五智杵・蓮

慧喜童子(えきどうじ)

摩尼・三股鉤

清浄比丘(しょうじょうびく)

梵篋・五鈷杵

矜羯羅童子(こんがらどうじ)

合掌・一股杵

制咤迦童子(せいたかどうじ)

縛曰羅・金剛棒
 

大学の恩師がことある毎に連発していたジョーク(?)
制咤迦童子は背が高い。」

その他の童子

阿耨達童子(あのくたどうじ) 蓮華・独股杵

指徳童子(しとくどうじ) 輪・三叉鉾

烏倶婆伽童子(うくばかどうじ) 縛曰羅・拳印
 

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なんてテキトーなんざましょ。

八大童子には、文殊八大童子というものもあります。

降三世明王(ごうざんぜみょうおう) 
数ある明王たちの中で、抜群に格好いいのが彼、降三世明王です。

降三世とは、サンスクリット語でトライローキヤヴィジャヤ"Trailokyarijaya"「三つの世界を降伏せしめる者」の意で、吽迦羅金剛(うんからこんごう)、忿怒月黶尊(ふんぬがつあつそん)、孫婆明王、勝三世明王ともいわれます。
四面(三面)八臂の忿怒形で足下に大自在天(シヴァ神)とその妃、烏摩(うま、ドゥルガー神)を踏む姿であらわされます。
これこそが降三世明王の降三世たる所以。
貪(とん)、瞋(じん)、痴(ち)の煩悩三世、或いは過去、現在、未来の三界の主である二天をも調伏する事を示すものであります。
しかし、そんなに強い彼にも、残念ながら弱い時期がありました。

あれは〜・・・、ヒンドゥ教の時代じゃったぁ〜・・・
ある所に、スンバ、ニスンバという大変仲の良い兄弟の魔族(アスラ)が住んでおったそうな。
その兄弟は周辺の人々からは「オニじゃ〜」「アクマじゃ〜」(当たり前)と恐れられておった。
そんな恐ろしい兄弟にも、ただひとつ恐怖の対象がおったのじゃ。
それがシヴァ神の妻ドゥルガーだったのじゃあ。
そしてある日遂にあわれ兄弟はそのドゥルガーによって降伏されてしまったのじゃ。
おかげで村には平和が戻り、村人達はいつまでもいつまでも解放の歓びに酔いしれておったそうな。
めでたし、めでたし。
か、どうかは知りませんが、そのスンバ、ニスンバ両尊が仏教に取り入れられ、逆にシヴァ、ドゥルガーを調伏する降三世明王となったのであります。今度こそ、めでたし、めでたし。

この明王は、金剛頂経ではきわめて高い位に位置し、金剛薩たの忿怒身とされます。
したがって、金剛界では金剛界大日如来の教令輪身となり、胎蔵界大日如来の教令輪身である不動明王と同格の扱いを受けます。
そして、五大明王の一として東方に配される事も多いです。(五大明王については後に)

像容は、通常三面八臂であらわされ、正面三目、左第二手に五鈷鈴次手弓、第四手に索、右第二手に五鈷杵、第三手に箭、第四手に剣をとり、左足で大自在天、右足で烏摩后を踏みます。
そして正面の二手は、降三世印を結びます。

「正しい降三世印の結び方講座〜ワー、パチパチ(拍手まばら)
1.左手を前に、両腕を胸前で交差させバッテン印をつくります。
2.そのまま両方の小指をしっかり絡ませます。
3.OH!もうできちゃった!

さあ、テレビの前のよい子たちも、強さの秘密、降三世印を「街で嫌なヤツに出くわした時」「無言の批判をしたい時」「いつも負かされている近所の犬と決闘する時」などに活用しよう!
注*実際に使用されて、なにか問題が発生しても、当方は一切責任を負いません、あしからず。

軍荼利明王(ぐんだりみょうおう) 
五大明王の南方を司る尊で、早くも7世紀中頃、阿地瞿多(あじくた)訳の陀羅尼集経に説かれています。

軍荼利とはサンスクリット語の「クンダリー」"Kundli"の音写で、「とぐろを巻くもの」という意味です。
したがって図上では身に蛇を纏う姿であらわされ、その蛇のエネルギーを象徴するヒンドゥー教、タントリズのシャクティー(性力)崇拝の仏教化した姿であるとも考えられます。

他方で、軍荼利とは不死の妙薬である甘露を入れる瓶の意味ともされ、後世の密教教学では「仏部、甘露軍荼利」「蓮華部、蓮華軍荼利」「金剛部、金剛軍荼利」と軍荼利を三種に分ける事もあります。
この中で、もっとも代表的なものは仏部の甘露軍荼利で、別名「吉利吉利(きりきり)明王」とも呼ばれます。
その真言(仏の言語、呪文)、「オン、アミリティ、フン、パット、オン」(不死なる者よ)は加持香水(かじこうずい。密教において、病気や災厄を香水によって浄化すること)の時に唱えられます。

軍荼利明王は、種々の障碍(しょうがい。障害)を除くとされ、観喜天(かんぎてん。古代インド神話のガネーシャ。もとは仏道修行を妨害する鬼神)を支配する者と考えられています。

像容としては二面四臂、四面四臂など異像様々ですが、多くは一面八臂にあらわされます。
頭上に髑髏冠を戴き、極忿怒の三目八臂で火焔のように髪を逆立てて、左右第一手で大瞋印(だいしんいん)を結び(両手を胸前で交差させる)、左三臂に金輪・戟・金剛鈎をとり、右三臂に三股・拳印・施無畏印をなし、脚・首・八臂に十二蛇が巻き付いています。

軍荼利明王は、大咲明王、軍荼利夜叉(やしゃ)とも呼ばれます。
 

ところで、「ぐんだり」と聞いて「くんだり」という言葉を思い出した方もおられるかと思います。
「こんな〜くんだりまでようお越し下さった」「〜くんだりまで来て」の遠隔地をあらわす「くんだり」です。
この「くんだり」は「くだり(下り)」の変化した言葉。
という事は、列車の時刻表「下り」は、常に「くんだり。くんだり。」と地方を蔑すんでいるようなもの。
私のように地方に住んでいる者にとっては実に腹立たしいこと。
悔しいのでこれからは「上り」を「ノンポリ」と呼んでやる事にします。
 

こういう下らない(おっ、くんだらない!)事ばかり書いて、仏像という高尚なものの品位を著しく下落させている私ですが、中学生の時分、このくだらなさが個性的でアバンギャルドとの担任の評価をいただいて、全校弁論大会に出場した事があります。
会場の厳粛なムードに際し、他の出場者の皆が国際情勢や人権問題真摯に論ずる中、ただ独り近所の犬のフンについてを延々と語り、審査員の歯牙にもかからなかったという輝かしい業績を誇ります。

まさに四面楚歌。いわく生き地獄。

知的で幸福に満ちた文章に飽きた、または知性の片鱗も見られない稚拙な表現を前衛的であると好意的に解釈してしまった徹夜明けの編集者の方々、執筆依頼なら相談に乗りますゾ。(売り上げを激減させる事を保証します。)

大威徳明王(だいいとくみょうおう) 
大威徳明王は、サンスクリット語でヤマーンタカ"Yamantaka"といい、死の神ヤマ(夜摩)と終わりをもたらす者「アンタカ」の合成語で、「死の神ヤマを倒す者」の意で降閻魔尊(ごうえんまそん)と呼ばれます。
世間一切の悪毒竜を調伏する「大威徳」ある「明王」として信仰されます。
また6本足を持つ事から六足尊といわれることもあります。

経軌では、六面六臂六足で水牛に乗るのが通例で、その水牛は、立ったもの、座ったもの、走行するものなどがあり、明王自身もその背に立ち上がり弓を構えるものもあります。
ちなみに、胎蔵界曼陀羅文殊・持明院では水牛に乗りません。

図像について、六臂の印相持物は経軌により異なりますが、特色としては、左右第一手を胸前で組み合わせ、中指を立て合わせる壇陀印(だんだいん、壇拏印・だんどいん、とも)を結ぶ、あるいは弓矢をとる事があります。

五大明王としては西方に配され、独尊としての造像は奈良の唐招提寺にあり、その信仰は、牛に座することから、後に農耕と結びつくようにもなります。
 

話は変わりますが、先日江戸のカラクリ博覧会なる展示会へ行って来ました。
そこに「エレキテル」の復元模型があり、興味深く拝見しておりました。
エレキテルといえば、皆さんご存じ発明家にして小説・戯曲家の天才マルチ人間「平賀源内」作。

そこで、彼の後年の話はあまり聞かないなぁと思い調べてみました。

エレキテル発明後の源内は結構豊かだったのですが、彼の細工品の下請けをしていた弥七という男が、源内の名を語りエレキテル製造の資金を集めるという事件を起こしてからは、評判は地に墜ち、生活は困窮してきました。
そして源内は、幽霊屋敷とウワサされる神田の旧宅を安値にて購入しました。
その祟りか呪いか、同年ある町人と飲み明かした翌日に大事な書類がなくなり、この町人が盗んだものと早合点した源内は町人を斬りつけ殺害してしまいました。

その後、誤解であるとわかり、源内は切腹しようとしますが、門人達が止めている間に役人が来てしまい、そのまま牢獄へと送られ、獄中、破傷風で死亡しました。
享年53歳。
遺骸は、罪人だからと縁者には渡されず、衣類と履き物だけが浅草総泉寺に葬られたといわれます。
(この辺は異説有り、源内と親しかった田沼意次が密かにかくまったなどの説があります。)

如何に天才平賀源内であれども、大威徳の加護なくして、夜摩の誘惑から逃れる事はできなかったようです。

金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう) 
サンスクリット語で「ヴァジュラヤクシャ」(金剛杵の威力を持つ夜叉の意)といい、五大明王の一尊に挙げられます。
五大明王のうち唯一金剛の名を冠する所から金剛薩たとの結びつきが強く、第一手左右に金剛杵と金剛鈴を持つ姿であらわされます。
また金剛夜叉明王の真言を「オーン ヴァジュラヤクシャ フーン」といい、これが金剛界十六菩薩の金剛牙菩薩と同じであることからも、この明王が金剛界系の忿怒尊であるといえます。
訳名の金剛尽、金剛瞰食(がんじき、食らうの意)は、人の汚れた欲心を食らい尽くし真実の悟りに至らしめるというものです。

その図像において経軌は三面六臂像のみを説き、特徴は中心面が五眼(両眼二重、眉間一眼)を持つ忿怒の相、手に金剛杵と金剛鈴を持つ所です。
台密(天台宗の密教)では金剛夜叉明王に変えて烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)が使われ、その図像は智証大師(円珍)請来様と呼ばれ、蓮華座に右足を踏み下して楽坐する三目六臂像であらわされます。(烏枢沙摩明王については後に)

この金剛夜叉明王は五大明王の一尊ではあるけれど、独立した信仰で造像される事は少なく、有名な違例である醍醐寺・大覚寺・東寺・不退寺の塑像・画像はすべて五大明王の一としてのものです。
ただし醍醐寺には単独で現存する藤原時代の画像が伝えられています。しかしこれも、恐らく五大明王図の一幅が分散されて残されたものとする見解のようです。
 

前記「大威徳明王」のところで平賀源内に触れましたが、その源内さんの意志を受け継ぎ日本の科学はおおいに発展しました。
その発展の黎明期である明治時代の新聞(報知新聞)の1901年1月2日と3日に「未来予測」なる記事が掲載されました。
以下はその概要。

●無線電話で海外の友人と話が出来る (ヘローヘロー。当たり
●遠距離の写真がいながらにして手に入る (写真どころか動画も見られます。当たり
●野獣が滅亡する (しては困ります。野生動物を救おう。外れ
●サハラ砂漠が緑化し、文明の中心はアジア、アフリカに (なってません。緑化運動がんばろう。外れ
●七日で世界一周できるようになる (宇宙に出ればもっと速いです。当たり
●空中軍艦や空中砲台が出来る (あまり嬉しくない事ですが、当たり
●蚊や蚤が滅亡する (奴らはしぶといです。外れ
●機械で温度を調節した空気を送り出す (エアコンはいまや必須家財です。当たり
●電気の力で野菜が生長する (この辺には詳しくないのですが間接的には、当たり?
●遠くの人間と話ができる (携帯電話ですね。当たり
●写真電話ができる (テレビ電話があります。当たり
●写真電話で買い物ができる (ネットのオンラインショップは盛況です。当たり
●電気が燃料となる (電車や電気自動車が走ります。当たり
●葉巻型の列車が東京神戸間を2時間半で走る (うわ具体的。でも当たり
●鉄道網が世界中に張られる (時代は空です。よってこれは外れ
●台風を1ヶ月前に予測し、大砲で破壊できる (そうはイカのナントカ。外れ
●人の身長が180センチ以上になる (オランダ人男性の平均身長は180センチ位です。日本人だと外れ。でもそう遠くない)
●医術が進歩し薬が廃止、そして電気で無痛で手術できる (そうなって欲しいものです。外れ
●馬車にかわり、自転車・自動車が普及する (一家に一台から一人一台へ。当たり
●動物と会話でき、犬がお使いをする (犬語翻訳機バウリンガル。よって半分当たり
●無教育な人間がいなくなり、幼稚園が廃止され、男女とも大学を出る (幼稚園はまだありますが、進学はほぼ当たり
●琵琶湖の水で起こした電気を国内に輸送する (残念ながら水力ではそんなに電気を供給できません。省エネ推進。外れ

さて、どうですか?当たったものも外れたものも、百年後の今に見ると、とても興味深いものですね。

参考文献 PHP文庫「歴史の意外な結末」
烏枢渋摩明王(うすしまみょうおう) 
烏枢沙摩(うすさま)と記すこともあり、穢積(えしゃく)金剛・受触金剛・不浄忿怒・不壊金剛・火頭金剛とも称することから、世の中の一切の不浄や悪を焼尽する威力を示す明王とされます。
台密(天台系)では金剛夜叉の代わりに五大明王の一尊として配されますが、一般的に知られるのは不浄除けの独尊としてが多いです。
この明王は単独で多く信仰され、その為異像も数多く、蛇と髑髏を飾りとし上方に化仏をあらわすものもあります。

この明王のような威力を誇る粗暴な気質のことを伝法肌といい、時には侠気を感じさせる格好の良い性質として使われますが、元は浅草の伝法院という有名な寺の僧たちが寺の威光をかさに着てやりたい放題した所に端を発します。
結局はあまり格好の良いものではなく、虎の威を借る狐と同意という事です。
皆さまも、学歴、職歴をかさにきて威張る事のないようにお気をつけあれ。
ま、私には誇るような学歴も職歴も何もありませんが。はっはっはっ。ルルル〜失うモノはなにも〜(涙)
 
 

今の所はこれだけです。
 


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