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脳内探訪−ランダムアクセス

 この場所には、テーマがはっきりしないことをいろいろ書いていきます。基本的に、新しいことは、ここに書いて、内容によってテーマを振り分けて各ページに割り振ります。ということで、ここは、「新着情報」と思ってもらえばいいと思います。

I N D E X
年月日 タイトル 概   要 おすすめ度
2000.12.27 郵便局ってすごい 年賀状をたった四日で届ける?! **
2001.1.10 21世紀になりました 21世紀になったけど変わりばえしない? ***
2001.1.12 今年の成人式 何か心が狭いような気がするんだけど ***
2001.1.26 土用のうし 今日は土用のうしの日です ****
2001.5.29 毎度ご乗車ありがとうございます 「ご乗車」は本当にありがたいのかも ***
2001.6.1 改革・改革というけれど 今の「改革」ってただ壊すだけ、いじめるだけ ****
2001.6.9 大阪の小学生殺傷事件に思う 日本の「命を大事に」は、ニセモノだからこうなる。 ****
2001.6.11 道路特定財源見直しについて 見直しは「禁断の木の実」 ****
2001.7.1 医療ミスについて 人間の本能からくる「カン」を大切にして欲しい ****
2001.7.22 こちらでお召し上がりですか? 「マニュアル通り」には、それなりの意味がある ****
2001.7.28 暑い・・・・ 「家電リサイクル法」は実はとんでもない悪法 *****
2001.8.17 野球って9人でするものじゃないの? 大物だけじゃなくて、みんなに注目しましょう ****
2001.9.12 なんということだ! 最低限の危機管理はしてみてもいいのでは? ***
2001.10.3 最近の裁判所は・・・ 日本の裁判所はどこまで愚かなのか *****
2001.10.23 これだからジャーナリストは・・・ 無謀な取材のせいで世界は大迷惑 ****

・2000年12月27日(水)−郵便局ってすごい
 年末になると、やらなきゃいけないことが結構たくさんあります。大掃除とか、正月の準備とか、借金取り(爆)とか。そんな中、年賀状を書くというのは、結構手間がかかって大変な作業の一つだと思います。最近では、パソコンで年賀状作成ソフトなんかがあるので、これを使って印刷すれば、かなり手間が省けるんですが、これもやってみたらやってみたで、プリンタの設定がうまくいかなくて失敗したりすることが多くて、なかなか一筋縄ではいかないものです。
 さて、その年賀状、郵便局によると、今日までに投函すれば元旦に届くのだそうです。元旦まであと4日、この4日間に数十億通という年賀状を送り届けるわけです。
 少し前までは、年賀状が元旦に届くためには、12月20日までに投函しなければ間に合わなかったんですが、それが25日、27日と、だんだん締め切りが遅くなってきています。つまり、ここ10年ぐらいのうちに、輸送スピードが3倍近くになっているんですね。そう考えると、郵便局って、実はすごいんですね。

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・2001年1月10日(水)−21世紀になりました

 遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。ついに21世紀になりました。といっても、21世紀になって何が変わったかというと、日本の省庁再編−単に数と名前が変わっただけのような気がしますが−、それくらいでしょうか。今年は世紀の節目であるとともに、1000年の節目なんで、ものすごく大きな節目なんですね。そういう風に考えると、21世紀の幕開けってものすごいことなんですね。そういうものすごい節目って考えたとき、実際に21世紀を迎えて、何か物足りない、ほんとにこれが21世紀の幕開けなのか、って何か拍子抜けしたような感じがしないでもないと思います。
 しかし、よく考えれば、20世紀の最後の1秒と、21世紀の最初の1秒って、たった1秒の差しかないわけです。1秒で何が変わるかって、たいして変わらないわけです。
 私たちは、世の中が少しずつ連続的に変化している中にいるので、あまり「変わったなぁ」って印象を持ちません。でも、世の中は確実に変わっています。20年前の1980年と今を比べても、当時では想像もつかなかったことが、今では当たり前のようになっています。携帯電話、ノートパソコン、インターネット、こういうものを20年前に想像していた人が一体どれくらいいるでしょうか。
 ただ、それでも、「あまりかわりばえしない」と思う人はいるのかもしれません。おそらく、それは、大きなものがあまり変わっていないからじゃないでしょうか。例えば、自動車など、ガソリンを燃やしてタイヤで走るという構造は数十年変わっていません。30年ぐらい前には、21世紀には道路上を浮いて走る飛行機みたいな自動車が、21世紀には登場している、という想像がされていたのですが、それは未だに可能性の片鱗すら見せていません。他にも、宇宙開発なんかも、日本ではロケットの打ち上げに何回も失敗するなど、思ったほどに進んでないのが現状です。こういう大きなものについての技術の進歩という点では、実際の21世紀は昔の想像に追いついていないというのが実感かも知れません。
 どうやら、21世紀は、昔我々が想像したのとは若干違う方向に変わっているのかも知れません。例えば、携帯電話。確かに、昔の想像では、時計ぐらいの小型の通信機が登場するということは考えられていましたが、当時は、その通信機は、地球防衛軍みたいな、特殊な任務の人が仕事で使うというイメージでした。ところが、今、昔想像した小型通信機にあたる携帯電話は、女子高生が友達と話すのに使ったりしているわけです。コンピューターにしても、当時は高度な技術計算をしたり、科学の複雑な謎を解いたりするのに使うというイメージだったのが、今のパソコンは、ゲームとかネット恋愛とかに使われている訳です。
 つまり、実際の21世紀は、通信機やコンピューター、交通機関のような、ハード面については、昔の想像どおりか、それに追いついていないのですが、それらの使われ方、つまりソフト面については、昔の想像を絶するようなことが起きているわけです。

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・2001年1月12日(金)−今年の成人式

 今年から成人の日が1月の第2月曜日ということになった。今年は1月8日の月曜日だったのだが、それから4日たった今日も、成人式のニュースがマスコミをにぎわせている。それらのニュースは、全てが、新成人のマナーが悪いという内容のもので、今朝のニュースなどは、成人式でクラッカーをならした新成人が威力業務妨害で逮捕されるというものでさえあった。こういう報道を聞いていると、ものすごく情けなくなってくる。
 といっても、新成人のレベルが低いという情けなさばかりではない。むしろ、情けなくてしょうがないのは、壇上に立っている人間のレベルの低さである。
 もう10年以上前になるが、私にも成人式の時代があった。(年をとったものだ)その、成人式のときに、壇上に掲げてある日の丸をひっぱがした若者がいて、会場が一時混乱した。そして、その後、式典が始まったのだが、挨拶に立った目黒区長(当時は学生だったので東京にいた)は、あいさつの中で、「若者はあのくらい元気な方がいい」ふうなことを言っておられました。あのころは、まだ上に立つ人が、若者の暴走に対して理解があったんですが、今はクラッカーを鳴らしたぐらいで警察沙汰にする。それでもって、その対応に多くの人が賛同する。こう見てみると、何か、今の人というのは、あまりにも人間の幅が狭いような気がしてなりません。
 現在社会で活躍している人で、能力も人格も優れた人というのは、若い頃に結構悪いことをやってきていると聞きます。例えば、子供のころ、他人の畑からスイカを盗んだりとか、人の家の柿の木から勝手に柿をとったりとか、そういうことをいろいろやっていたといいます。
 思うに、若い頃にこういうことを経験することが、人格を形成する上で重要なんじゃないでしょうか。こういう悪いことを若い頃に経験していない人というのは(私もそうなんですが)、何か人間の幅が狭いような気がします。そう考えると、あの程度のいたずらを警察沙汰にしてしまう今の風潮では、大きな人間は育たないような気がしてなりません。

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・2001年1月26日(金)−土用のうし
 今日は土用のうしの日なので、うなぎを食べることにした。と言うと、
「おい、土用のうしは夏だろう?なに馬鹿なこと言ってるんだ、頭狂ってるんじゃないの?」
と思われる方も多いことでしょう。確かに、頭は狂っているんですが(笑)、そういうまえに、よ〜く暦をみて欲しいと思います。まず、今日のところを見ると「つちのと うし」と書いてあるはずです。ほ〜ら、うしの日でしょう。それから、1月17日を見てください。暦に「土用」と書いてあるはずです。実は、この日から、立春の直前、つまり2月3日までが土用なんです。ですから、今日は、ほ〜ら、「土用のうし」でしょう?
 「土用」というのは、旧暦で、それぞれの季節の終わりの2週間ぐらいの時期をいいます。旧暦では2,3,4月が春、5,6,7月が夏、8,9,10月が秋、11,12,1月が冬なので、土用というのは、
 春の土用が4月後半〜5月初め、
 夏の土用が7月後半〜8月初め、
 秋の土用が10月後半〜11月初め、
 冬の土用が1月後半〜2月初め、
というふうになっているんです。で、「土用のうし」というのは、この期間の「うし」の日をいうわけです。旧暦では各日にも十二支が、ね、うし、とら・・・・と割り当ててありますから、土用の2週間のうち「うし」が割り当ててある日が「土用のうし」になるわけです。うしの日は12日おきに来ますから、「土用のうし」の日は、各季節毎に最低1回、うまくいけば2回あることになるんです。
 土用のうしにウナギを食べる、というのは、江戸時代に平賀源内が広めたと言われています。広めた目的も、ウナギ屋の売り上げを伸ばすためと言われていて、今で言うキャッチコピーみたいなものだったようです。そのキャッチコピーが、300年たった今でも、夏の土用のうしの日に、ウナギを大量に消費させているんですから、キャッチコピーの力ってすごいですね。
 そうすると、「実は土用のうしの日は年に4回あった」という事実は、ウナギ屋にとっては大きなビジネスチャンスではないのでしょうか。夏はバテやすいので、栄養のあるウナギを、というのが平賀源内が「土用のうし」を考えた理由なんですが、現代は、春も夏も秋も冬もバテやすいので、年4回ウナギを食べてもいいんじゃないでしょうか。
 ということで、これを見たウナギ屋のみなさん、年4回の「土用のうし」大きく宣伝してみてはどうでしょう。で、ウナギが売れまくって儲かったあかつきには、私にうな丼の1杯ぐらい・・・

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・2001年5月29日(火)−毎度ご乗車ありがとうございます。
 このページの更新間隔がだんだん長くなってきてしまった。今回は3ヶ月以上経ってしまっている。また、このページの構成を考え直さないといけないかもしれない。
 さて、今回の話も、例によって変である。
 電車なんかに乗ると、必ず、「毎度ご乗車ありがとうございます」というアナウンスが流れる。私はひねくれ者だから、そういうアナウンスをも聞いていて「乗車したのがありがたいんじゃなくて、運賃を払ったのがありがたいんだろう!」なんて思ってしまう。
 相手は商売なんだから、お金をもらうことがありがたいわけで、電車に乗ってくれること自体がありがたい訳じゃないんじゃないか。そう思うと、あのアナウンスは何となく白々しい。
 しかし、最近になって、「ひょっとしたらそうじゃないんじゃないか?」と思うようになってきた。例えば、私のホームページなんかも、見に来てくれたからと言って私にお金が入ってくるわけじゃないんだけど、掲示板のレスには、自然と、「はるばる10光年の彼方ブーゲンブ村へお越しいただきありがとうございます」と書いてしまう。やはり、ホームページを作った以上、お金に関係なく見に来てくれた人がいるのは嬉しいものである。
 そう考えると、あの電車のアナウンスも、あながち白々しいとは言えないんじゃないだろうか。乗客が数人しかいない。あるいは誰も乗っていない電車の車掌をやるのと、乗客で満員の電車の車掌をやるのでは、やはり気分的に違うのかではないだろうか。
 人間が働くのは、第一義的には生活のためのお金を稼ぐためだろうが、やはり、自分の仕事が人の役に立つというファクターは、結構重要なんではないだろうか。

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・改革・改革というけれど−2001年6月1日(金)
 今日は久しぶりに、真面目な話をしてみたいと思う。
 小泉さんが総理大臣になってから、かなり思い切って改革をやろうということになってきているようで、内閣支持率なんかも結構高くなっていて、国民の間では改革というものに対する期待が高まっているようである。
 ところで、改革って何なんだろう、なぜ改革をしなければならないんだろうという、基本的なことを考えてみよう。
 まず、なぜ改革をしなければならないかというと、これは単純で、現状がよくないからに他ならない。史上空前の大不況下、史上最悪の失業率、自殺者の増大、凶悪事件の頻発など、今の日本は悪いことばかりである。こんな状況を打破したい、そういう思いが改革への期待となっていることは間違いない。
 次に、じゃあ、改革って何か、ということだが、単純に言えば悪いところをよい方向に変えるということに他ならない。
 さて、今政府がやろうとしている改革、国民が期待している改革は、本当に悪いところを良い方向に変えようとしているものだろうか。
 たとえば、外交機密費の問題を考えてみる。内閣は、例の機密費流用事件を受けて、外交機密費を減額する方向に持っていっているが、私はこの結論はあまりに短絡的すぎるとしか思えない。
 私は、こういう事件が起きた場合、まず、機密費流用によって、外交に支障が生じたかどうかをまず最初に検討するのが本当だと思う。例えば、機密費を流用したことによって、本当に必要なときに機密費がなくて、外国の要人を十分にもてなせなかったとか、日本の国益になる重要な情報が得られなかったとか、そういうことはなかったのか、まず、そういうことを考える。そうして、機密費が流用されて本来の目的に使われなかったにもかかわらず、外交に何も支障がなかった、ということが確認されてはじめて、それじゃ流用した分の機密費は不要だから減額しましょうということになるのではないかと思う。
 ところが、今回の場合は、いきなり、流用事件が起きたから機密費を減らしましょうになっていて、外交に支障があったかどうかの議論は全くなされていないとしか思えない。
 私が思うに、この種の問題はいつもそうで、以前に防衛庁の調達本部の背任事件が起きたときも、いきなり調達本部の廃止を検討するという話になってしまっていた。このときも、調達本部がなぜ必要だったか、どんな役目を果たしていたかなどの論議は全くなかった。
 こうやってみると、何か今の改革というのは、不祥事があったところを壊すという、ただそれだけのことのような気がしてならない。外務省に不祥事があったから、それにかこつけて予算を減らす。うがった見方をすれば、単に人のアラを探していじめているだけという捉え方さえできる。これでは、小学校でウンコをした子供を「ウンコたれ」と言っていじめるのと同じレベルでしかない。
 残念なのは、この低レベルな「改革」が、多くの国民に支持されていることである。なぜ支持されるか。理由は一つしかない。要するに日本人は、官僚など、妬みの対象になるエリートをいじめたいだけなのである。つまり、日本人が支持しているのは「改革」ではなくて「いじめ」なのである。
 エリートをいじめてカタルシスを得ようとするだけの「改革」では、日本はもっと陰惨な国になってしまだけのような気がしてならない。

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・大阪の小学生殺傷事件に思う−2001年6月9日(土)
 また、恐ろしい事件が起きてしまった。今日の新聞では、この小学生殺傷事件がかなりセンセーショナルに報じられていた。かなり傷ましい事件ではあったのだが、この事件に対する社会の反応を見ていると、今後に大きな危惧を抱かざるを得ない。
 まず、何よりも先に気になるのが、この事件を機に精神障害者に対する差別や偏見が助長されるのが確実だということである。今回の事件を受けて、司法当局も医療現場も対策をいろいろ考えるだろうが、どっちにころんでもその結果が精神障害者の人権を著しく蹂躙するものになることは間違いない。おそらく、精神障害者の場合は、かつてのハンセン病患者のように社会的支援が受けられないであろうから、隔離政策や身体的拘束、精神障害者に対する虐待などが今後ますます増大することは間違いない。最近、日本人の1割がかかるとさえ言われているうつ病に関して、社会的認識が高まってきて、精神障害に対する理解が得られ出したことを思えば、残念でならない。
 ところで、この事件もそうであるが、こういう凶悪事件が起きると、「命の大切さ」というものをもっと教育しないといけないということが必ず叫ばれる。そして、学校なんかでも、命の大切さというものについて、くどくどと教えられるのであろうが、実は、
日本で言う「命の大切さ」というのは、まったくのニセモノなのである。
 なぜなら、日本で言う「命の大切さ」というのは、「他人の命を大切にしよう」ということで、裏返せば「自分の命は粗末に扱え」ということなのだからである。
 日本では、未だに「自己犠牲(日本の「自己犠牲」は自分の命を粗末にすることでしかない)」が美徳とされているし、政治家や官僚に疑惑が起きると、マスコミはこぞって「自己保身のためにしか動かない」と痛烈に非難する。私はこの種の報道を聞くたびにいつも思うのだが、
人間が自分の身を守るのは当たり前じゃないか
なぜ、当たり前のことをして非難されなければならないのか、いつもこの疑問がわいて出る。
 新聞の投書欄を見ていると「政治家や公務員は国民のために滅私奉公すべきてある」などと公然と書いている人が珍しくない。政治家や公務員は特別で、自分の身を守るという当然の権利も放棄しなければならない、というのなら、まだわからないでもない(それも本当は無茶苦茶な話ではある)のだが、とにかく、日本の社会では、自分を犠牲にするのが美徳という価値観(裏返せば、「自分の身を守るのは醜悪なこと」という価値観)が、まだ生きているのは間違いない。こういうことを言っておきながら「命を大切に」というのは、「他人の命は大切に、自分の命は粗末に」と言っているのと同じである。
 今回の事件も、報道された犯人の供述からみると、犯人が「自分の命を粗末に扱った」ことが、原因であることはほぼ間違いなさそうである。そうすると、犯人が精神障害者であったことを差し引いても、「自己犠牲=自分の命は粗末に」という日本人の価値観が事件の根底にあることは否定できないであろう。
 最近増えているうつ病というのは、「自分が必要ない人間じゃないか」、「自分は生きていてはいけないんじゃないか」という観念に駆られることが多いのだそうだ。これは単に病気の症状だという見方もあるだろうが、日本の価値観に基づいた教育のなかで、「他人のために自分を犠牲にしなさい」ということをさんざんたたき込まれてきたことが、こういう精神状態を招くことになってしまったとは考えられないだろうか。
 これから、「命の大切さ」を教えるのであれば、まず「
自分の命が一番大切なのだ」ということを教えるべきである。「他人のために自分を犠牲にしなさい」と教えるよりは、「自分が生きるためなら他人を殺したってかまわない」と教える方が、まだ人間として健全だと思う(もちろん「自分の命も大切に、他人の命も大切に」というのが理想ではあるが)。なかなか日本人には受け入れられない価値観だろうが、そういう、一見乱暴にも見える価値観の転換こそが、結果的には、今回の事件や、最近増えている電車内での殺傷事件などの、短絡的な凶悪事件を減らすことにつながるのは間違いない。なぜなら、これらの事件は、「自分の身を守る」「自分のために生きる」という本能が、「自己犠牲」の美名のもとに抑圧され、それが抑圧に耐えられなくなって暴発したものにほかならないからなのである。

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・道路特定財源見直しについて−2001年6月11日(月)
 最近、書かなければいけない事がいっぱいあって、何を書いていいか分からなくなってきてしまった。小学生殺傷事件についてもまだまだ書かねばならないことはあるし、構造改革についても書かなきゃいけない。でもって、もっと柔らかい面白いことも書きたい。
 そんな中、今日は、NHKのニュースでの世論調査の結果をみて、この問題を書いて見たいと思う。
 道路特定財源というのは、ガソリン税、自動車重量税など、自動車に関する税金を、道路の整備に使っていこうというもので、自動車の持ち主から金を取って、そのお金で、自動車が走るための道路を造ろうというものである。
 以前から、この道路特定財源を道路以外の用途に使えないかという議論はあったが、今回、小泉内閣では、構造改革の柱的な位置づけで、この財源の見直しを推し進めて行くようである。
 個人的には、今回の道路特定財源の見直しは、政府の借金体質がここまで来た以上、背に腹は代えられないとは思うのだが、倫理的に言えば、これは犯罪以外のなにものでもない。
 道路を造るからといって自動車の持ち主からお金を集めておきながら、それを別の事に使うのは詐欺そのものである。これを多くの国民が支持しているというのだから、この異常事態は「
一億総オレンジ共済組合」状態とでも言わなければなるまい。

 ところで、いま、日本でどれだけ自動車に重税が課せられているか、例によって大ざっぱに計算してみよう。
 例えば、1800ccの普通のガソリン車を持っていて、年間10000km走行する場合、ガソリン税が約50000円、自動車税が約40000円、自動車重量税が年に換算して約15000円、5年で車を買い換えるとして、自動車取得税が年当たり約20000円、合計で年間約12万5000円にもなる。年収500万円で4人家族のサラリーマンの年間の所得税がだいたい10〜15万円ぐらいだろうから、いかに自動車に重税がかけられているかが分かるであろう。
 なもんだから、道路特定財源は、金額そのものはけっこうあるわけで、国の財政が逼迫しているなか、この財源に手をつけようという気持ちは分からないでもない。しかし、それは、自分の借金の返済に困って会社の金に手をつけてしまうというのと同じである。
 確かに、全体的に見れば、この財源を他に回した方が財政はうまく回るだろうし、とりあえずは日本の財政の危機的状態を回避できるであろう。しかし、これは、やはり「禁断の木の実」であることは重々心得ておかなければならない。これをやってしまうと、税制の根本である「税の公平性」を著しく損ね、「取りやすい所から取る」というきわめて不健全な税制を今後も作り出してしまうことになりかねない。
 私は、税金を取るべき所はもっと他にあるはずだと思う。消費税は確実に年間10兆円以上の徴収漏れがあるし、おそらく法人税も、最低30〜40兆円、あるいははそれ以上の徴収漏れがあるのはほぼ間違いない。(2000年1月30日の「のーたん」参照)。構造改革を唱えるなら、こういう所にもきちんとメスを入れて欲しいと思わずにはいられない。
 今回の構造改革が、取りやすいところ(言い換えれば、弱い立場のところ)から取るという改革
−それは、結局弱い者いじめに他ならない−で終わってしまう事のないよう、切に祈りたいものである。

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・医療ミスについて−2001年7月1日(日)

 この文章を書いている今、NHKスペシャルで医療ミスの特集をやっている。未だに論調が医師に対する非難で終わっていることにがっかりして、途中で見るのをやめた。
 医療ミスについては、「脳多林」にも1項目をあげて書いてあるが、医者だからミスしないのがあたりまえだという間違った考えはいいかげんにしてほしい。
 おそらく、歴史上最高の医者は、架空の人物ではあるが、手塚治虫先生の作品に出てくる「ブラック・ジャック」であろうが、そのブラック・ジャックにしても、手術成功率は89.5%でしかない(豊福きこう氏著「ブラック・ジャック89.5%の苦悩」による)。
世界最高の医者が10人に1人以上の割合で患者を死なせているのである。そう考えれば、普通の医者にかかれば、3分の1ぐらいは生きてかえって来れないと思うのが当たり前だろう。ましてや、今の医者や看護婦の忙しさは地獄並である。単純ミス、単純ミスといってみんな非難するが、じゃあ、そういうあなたは今まで単純ミスは一回もしたことがないんですか?違うでしょう。いくら人の命を預かる重大な使命を持っているからといって、人間なんだから、まして地獄的に忙しいのだから、単純ミスをするのは当たり前なのです。正直言って、私には、こんな単純なことがわからない日本人は、どうかしているとしか思えない。

 それはさておき、私は医療に携わる人(それ以外の人も)に一つだけ提言したいことがあります。それは、「
カンを大切にせよ」ということです。人間も動物だから、危険を予知する本能を持っています。だから、何かミスが起きている時は、何やら得体の知れぬ胸騒ぎが必ず起こっているはずです。現代は科学や理論に押されて、こういう直感みたいなものは軽視されがちですが、どんなに科学や理論が進歩しても、人間の「危険を察知するカン」には絶対にかないません。絶対にです。
 今NHKスペシャルで取り上げられている医療事故にしても、関係者の何人かは「
何となくだけど何かおかしい」と思ったはずです。ところが、それを非科学的なものだ、気のせいだと自分で打ち消してしまっているから、こういうミスに気づかないで、取り返しのつかない結果を招いてしまうんです。NHKでは「医師が未熟だから」と、医療ミスの原因を報道していますが、そうじゃない。最大の原因は、人間の本能からくる「カン」を無視している事にあるんです。もし、何となく「何か変だ」と感じたら、その心の声に真剣に向き合って欲しい。そうすれば、少なくとも取り返しのつかないことにはならないですむ。医療に携わる人はもちろん、そうでない人も、自分の「カン」には真剣に耳を傾けて欲しい。そう願わずにはいられません。

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・こちらでお召し上がりですか?−2001年7月22日(日)
 某ハンバーガーショップで、ハンバーガーを買うとき、必ず聞かれる「こちらでお召し上がりですか?」という1フレーズ。これは、ギャグねたなんかにもなっていて、ハンバーガー10個チーズバーガー10個買って「こちらでお召し上がりですか?」って聞かれて、「私がそんなに大食いに見えるのかよ」って怒ってしまう。なんてのがあります。このフレーズは、要するに、このハンバーガーショップのマニュアルの中に、そう言うというのが入っているわけで、店員としてはマニュアル通りにしゃべっているわけだが、そうすると、こういう、相手の怒りを招いてしまう結果が起きてしまうことがある。
 なもんだから、我々は、「もっと臨機応変に対応したら」と思う。つまり、明らかに店内で食べられない量だったら、「お持ち帰りですか?」と聞くようにするとか。実際に、店員の中には、そういう機転を(機転と言うほどのものではないが)きかせる人もいる。
 しかし、そうすると、今度は別の問題が出てくる。つまり、店員が、客が買った商品の内容と、客の外観風貌を見比べて、店内で食べきれるのか持ち帰りなのかを判断しなければならなくなる。これはこれで厄介で、中には、いかにもかよわそうな女性がハンバーガー10個を平らげてしまうこともあるだろうし、筋骨隆々の大男が、ハンバーガー2個を食べきれないということもあるだろう。そうすると、店員が外観で判断して、前者の女性に「お持ち帰りですか?」って聞いてしまうと、本人は店内で食べるつもりでも、恥ずかしくて店内で食べるとは言いにくいだろう。後者の大男の場合も同様だろう。そうすると、店員が判断して臨機応変に対応するというのは、さらにややこしい問題を抱えてしまうことになってしまう。
 さて、ここで、応対するのが人間じゃなくて、自動販売機のような機械だったら、客はどう思うだろうか。ハンバーガー20個買って、機械が「こちらでお召し上がりですか?」と聞いてきたって、相手は所詮機械だから、怒る気にはならないだろう。(それでも怒ります?)、さっきの例では、相手が人間だから怒るわけで、機械が機械的に(機械だから機械的なのはあたりまえか)聞いてくることには腹が立たないわけである。
 そう考えると、最初の店員が、マニュアルを機械的に復唱して「こちらでお召し上がりですか?」と聞くのは、「こちらはあくまでも機械的にやっています(だから怒らないでください)」ということなのではないだろうか。つまり、某ショップの店員は、マニュアル通り、機械的に応対することで、自分が人間であることによって生ずる軋轢を回避しようとしているとは考えられないだろうか。
 客にしてみても、「あの店の店員はマニュアルを復唱しているだけ」というのを理解してしまえば、ギャグねたにはなっても、本気で怒ることはないだろう。そういう意味では、「マニュアル通り」という対応は、下手に自分が人間的判断をすることによって生じる摩擦を回避する有効な手段なのではないだろうか。
 よく、「今の若者はマニュアル通りにしかことができない」と、年輩の人が非難することがあるが、「マニュアル通り」というのは、自分の人間的判断をあえて行わないことによって、人間同士の不要な感情のもつれを回避するという意味があるのである。特に、現代ではいろいろな考えを持った人と付き合わなければならないから、自分の感覚で判断して応対すると、とんでもない間違いを犯しかねない。今の若者は、それを無意識にしろ感じているから、そういう間違いを防ぐために「マニュアル通り」にやることで自分を機械化し、人間感情の不要なもつれを回避しようとしているのである。私は、そういう考えの方が、単一の価値観でしかものを考えられない、一部の年輩の方よりはるかに優れていると思うのだが、いかがなものであろうか。

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・暑い・・・・・−2001年7月28日(土)
 それにしても今年の夏は暑いですね。最高気温の記録更新をしたところもあるみたいですし。筆者が住んでいる宮崎県は、南国であるくせに、東京や大阪ほどには暑くないんですから、気候というのは不思議なものです。
 とは言え、クーラーのない筆者の部屋は、さすがにうだるような暑さで、さすがに昨晩は真夜中になっても気温が30度を超えてたんで、たまらなくなって家に唯一クーラーのある部屋にいって、体を冷やさなければならないほどであった。
 ところで、筆者の家の唯一のクーラーは、買ってからもう20年近くになる。だから、当然電力効率も悪いし、今みたいにフィルター掃除が簡単にはできない。私はそろそろこのクーラーは買い換えるべきだと思っているのだが、よく考えたら、家電リサイクル法というのが今年の4月から施行されていて、古いクーラーの処分料をださなければいけない。
 この、「家電リサイクル法」というのは、いわゆる循環型の社会を作って、地球環境にやさしい社会にしようという目的で作られているのだが、昨日、20年近くたったクーラーを眺めながら、あれ?と思った。
 というのは、家電リサイクル法で、家電の廃棄にお金がかかるようになったということは、買い換えるときには、その分だけ割高になるということである。そうするとどうなるか。おそらく、みんな家電製品を買い換えるのを控えるようになるだろう。そうすると、筆者の家のように、10年前、20年前の家電製品が現役で働かなければならなくなるわけである。
 当然、そういう古い家電製品は電気効率が悪いから、その分無駄なエネルギーを余分に消費してしまう。そうすると、今回の家電リサイクル法のために、そういう効率の悪い、言い換えれば地球環境にやさしくない家電製品が、日本各地で無駄なエネルギーを消費し続けるのである。
 今、電機メーカー各社は、知恵と技術を絞って、効率の良い、地球環境に優しい家電製品を一生懸命作っている。ところが、家電リサイクル法のために、その努力は、買い換えを控える消費者のために空しく終わってしまっているのである。
 こう考えると、実は、家電リサイクル法というのは、とんでもない悪法なのではないだろうか。地球環境に優しくと言っておきながら、結果的には地球環境を破壊する方向に日本を動かしてしまっているのである。さらに、この悪法は電機メーカーの業績低下を招き、景気の悪化に拍車をかけるという副作用ももたらしている。
 「家電リサイクル法」は、直ちに廃止するか、旧来の電化製品を、省エネ型に買い換えるのを促進する方向になるよう、法律を改正するべきではないだろうか。

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・野球って、9人でするものじゃないの?−2001年8月17日(金)
 高校野球も3回戦に入り、ベスト8が今日当たりから出始めた。今年は、我が郷土宮崎代表の日南学園が、150キロを超える超高校級の寺原投手を擁し、優勝候補の一角にあげられている。日南学園は、全国から野球留学生を集めている私立の高校だが、この寺原投手は地元宮崎の出身で、スポーツ後進県(2年連続国体最下位)である宮崎県にとって、うれしい話題となっている。
 ところで、この寺原投手もそうだが、最近では野球の報道がされるとき、なぜかこういうスゴイ選手個人の話題ばかりが目に付く。プロ野球でもそうで、最近ではNHKのニュースで、毎日のように、大リーグに行ったイチロー選手と新庄選手の話題が取り上げられ、何打数何安打だったとかいう話が中心で、試合の結果はおまけみたいに報道される。
 こういう報道ばかりされると、なんか野球って怪物が一人いれば勝てるゲームなの?って疑問がわいてくる。もちろん実際はそうでなくて、他の8人がきっちり自分の仕事をしているから勝てるのである。しかし、ここまで優秀な個人にばかりマスコミの目が向いているのでは、「野球は9人でするもの」という、大切なことが色あせてしまう。
 我々は、どうしても、派手なもの、目立つものにばかり目がいってしまう。しかし、本当に大事なのは、そういう一部の派手で目立つものではなく、大多数の地味で目立たないものなのである。野球に限らず、実社会でも、本当に社会を支えているのは、派手で目立つ政治家や有名人、財界人ではなく、大多数のごく平凡で当たり前の普通の人間なのである。
 今、我々の目は派手なものばかりに向かっていて、それがマスメディアによって加速されている。その結果、本当に大切なものが見えなくなってしまい、その大切なものが軽視されていく。そして、それらが軽視されることで、大切なものに十分な手当がなされず、気がついたときは取り返しのつかないことになってしまうということになりかねない。
 そうならないためにも、まずは、野球でも、大物だけを見るのではなく、目立たないけど頑張っている全ての選手に目を向けようではありませんか。

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・なんということだ!−2001年9月12日(水)
 一体どうしたというのだろうか。アメリカで最悪のテロ事件が起きてしまった。飛行機をハイジャックしてビルにぶち当てるなんて、とても正気の沙汰とは思えない。
 この事件は、まだ謎が多く、いろいろなところでいろいろな報道がされているが、冷静になって軽はずみな報道に踊らされないのが、我々一般市民の責務かもしれない。
 さて、このテロ事件は、私自身にも大きな心配事となって降りかかってきている。別に株を持っているとか、親戚がアメリカにいるとか(あ、1人いる)そういう問題ではないのだが。
 心配事の内容はあまりに個人的なことなのでここでは書かないことにするが、これだけの事件になると、一見何の関係ないような人まで予定が狂ってしまう。であるから、この種の事件の波紋というのは、思った以上に大きいのではないだろうか。
 こういう事件は、いくら自分の予定が狂うからといって、個人レベルで防げるような代物ではない。そうすると、私たちはこのような事件に対して、どういうふうに対策を立てるのがいいのだろうか。
 対策のたてようがないと言ってしまえばそれまでだが、我々は、日常動いているものが正常に動かないことがあるというのを常に想定しておいて、最低限の対策はもっておくのがいいのではないだろうか。例えば、電車で通勤している場合、電車が動かない時のために別の通勤手段を用意しておくとか、万一エレベーターに閉じこめられた時のために1かけのチョコレートをカバンに入れておくとか。これらは、ちょっとしたことだが、準備しておけば不測の事態のとき、一命をとりとめるかもしれないのである。
 今回の事件はあまりに大きく、個人ではどうしようもないものだったが、こういうこともあるのだと思って、ある程度の対策は持っておいた方がいいのかもしれない。
 ところで、話は全然違うが、これだけ用意周到な凶悪テロ事件であっても、その威力は、つい最近日本に上陸した台風15号に遠く及ばないのである。確かに、死傷者は今回のテロの方がはるかに多いが、それでも、橋を押し流し山を崩し川を氾濫させる台風と比べると、はるかにパワーは小さい。この非常事態にこんなことを思うのは私ぐらいだろうが、いかに人間の力がちっぽけなのか、今回の事件でそんなことも思った次第である。

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・最近の裁判所は・・・−2001年10月3日(水)
 今日、小田急線の高架事業に反対する沿線住民約120人が国と東京都に対して起こしていた裁判で東京地裁は国の認可を取り消す判決を出したらしい。私はこの沿線は学生時代によく通っていたので、この付近の地理にはわりと詳しいのだが、この判決には唖然とせざるを得ない。
 実は小田急線の高架事業については十数年前から高架化の問題が出ていて、私が学生の頃にこの沿線を通ったときに「小田急線高架反対」「小田急線は高架でなく地下化に」などの看板(ちなみに、これらの看板は屋外広告物条例違反である)がすでに立っていたのを覚えている。当時この看板を見て、私は、「また無茶苦茶なことを言っているなあ」と思っていたのだが、その無茶苦茶なことが裁判で通ってしまったのには開いた口がふさがらない。
 判決では、地下化の方が工事費が安い可能性があり、高架式との十分な比較がなされていないと言っているが、これはあまりにも非常識である。だいいち、鉄道技師でもない裁判官にどうしてこんなことが言えるのかがわからない。実際に工事をやってみれば、この発言がいかに無茶なものか身にしみてわかるはずである。
今回判決を出した裁判官には、責任を持って今後の地下化工事を担当してもらいたいものである。
 鉄道の地下化をやった事例はないわけではない。宮城県の仙台市にある、仙石線という路線で鉄道の地下化が実現している。この例は地形条件とか仙台駅が始発駅であるなどの条件によって地下化が実現したのだろうが、小田急線のあの部分(梅ヶ丘〜喜多見)を地下化するのは無謀としか言いようがない。
 なぜ無謀かを説明すると、ものすごく長くなるので、ここでは割愛するが(どうしても説明して欲しい人はメールください)、最近の行政訴訟の判決を見ていると、裁判所は住民(?)の太鼓持ちなのかと言いたくなる。
 行政訴訟で住民勝訴の判決が出ると報道機関は「画期的な判決」と褒めそやす。そういうこともあってなんだろうが、どうも最近の裁判は、冷静な判断なしに(としか思えない)、とにかく住民(?)
(註1)の意見が正しいという判決になっているものが目に付く。今回の事業の認可は、沿道への騒音の増大のために違法性があると裁判所は言っているようだが、鉄道の高架化は全国に数多くの事例があり、騒音問題や電波障害問題などを解決しながら、現に運用されているのだから、小田急沿線だけ違法というのは、憲法の「法の下の平等」に反する違憲判決と言わざるを得ない。
 裁判所は「法の番人」である。だからあくまでも法律に基づいた判断をしなければならないのはいうまでもない。ところが、最近の判例をみると、とても法律に基づいた判決をしているとは思えないものが多いような気がする。特に、最近は、「環境にやさしい」という錦の御旗がでてくると、無条件にそれに沿った判決が出されるようだ。
 ちなみに、今回の小田急線の例では、高架化と地下化では地下化の方が圧倒的に環境に悪いのである。
(註2)それにもかかわらず、原告が「環境」という錦の御旗を立てたのに釣られて、まともな判断ができないまま、住民(?)の意見に沿った判決を出してしまったというのが今回の裁判の真相であろう。
 裁判官は超難関の司法試験をパスし、司法修習生として何年もの厳しい訓練を経たスーパー人間であるはずである。その裁判官が、偽物の錦の御旗さえ見抜けないというのはあまりにも情けない。

註1:住民(?)−小田急線沿線には数十万人の人が住んでいるはずだが、そのうちの約120人の主張が沿線住民の総意であるとはとても思えない。だから(?)をつけている。
 また、住民というのが常に善良とは限らない。暴力団員であろうが、悪徳宗教の信者だろうが、「アル・カ−イダ」の一員であろうが、「住民」であることは間違いないのだ。もちろん、今回の約120人がそういう連中だというつもりは毛頭ない。
註2:なぜ地下化が環境に悪いのか、理由は次の通り。
1.トンネルを掘れば当然その分の土砂が発生する。この土砂の捨て場所が首都圏ではなかなかなくて、そのため、土砂を満載したダンプが都内を長距離にわたって走らなければならなくなる。その環境負荷は高架化の比ではない。
2.地下式にすると、当然駅のホームも地下になる。そうすると当然照明が地上よりたくさん必要なわけで、その膨大な電力消費が環境に及ぼす影響は無視できない。
3.地下には地下水が流れている。最近の都心に作られている地下鉄は地下水の影響を受けない深い部分に作っているが、小田急線の場合は建設費と現存の線路につなぐことを考えれば地下の浅いところに造らざるを得ない。そうなった場合、トンネルが地下水の流れに予測しがたい変化をもたらし、思わぬところで弊害が出る恐れがある。
・まだいろいろあるが、これだけ説明すれば十分だろう。

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・これだからジャーナリストは・・・−2001年10月23日(火)

 アフガニスタンで、日本人ジャーナリストとみられる男性がタリバンに拘束されたらしい。Yahooニュースによると、不法入国の疑いがかけられているということのようである。タリバンに拘束されているジャーナリストは、フランスなど、他の国の人もいるようだが、いずれにせよ、こうやって西欧人や日本人がタリバンに拘束されることが、自由世界がタリバンに対抗することに対する大きな足かせとなってしまった。
 アメリカを中心としたタリバンへの武力行使の可否を論ずるつもりはないが、その活動を結果的に阻害してしまうこととなる彼らジャーナリストの行動はあまりにも無謀かつ自分勝手と言わざるを得ない。
 もう10年近く前になるが、長崎県島原市の雲仙普賢岳が大噴火を起こしたときも、その様子を撮影しようとした多くの無謀なジャーナリストが犠牲となり、そのジャーナリストを乗せたタクシーの運転手までが巻き添えを食ってしまった。このときの教訓がジャーナリストに全く生かされていないのはものすごく残念である。
 日本人が海外で災害に遭ったり、紛争に巻きこまれる、あるいは外国の治安当局に拘束されるとなると、外務省を始めとしてあらゆる機関の手をわずらわせることになる。特に今回のように国際紛争が起きている国や地域では、一人の日本人の安否が紛争の行方を大きく変えてしまうことになりかねない。一人の無謀な行動が、下手すると世界全体を揺るがしてしまうことさえ起きかねないのである。
 ジャーナリストにしてみれば、自分の命をかけて迫力のある映像や写真を撮る、それが自分の生き方だと思っているのかもしれない。しかし、上に書いたようなことを考えれば、自分の命は決して自分一人のものではないのである。自分の命だから自分の好きなようにしてもいい、では済まないのである。現に、今回の邦人拘束は、これからの対タリバン政策に大きな暗雲をもたらすことは間違いない。危機にさらされている人を非難するのは酷に思うかも知れないが、このジャーナリストのやったことはいくら非難しても非難しきれないほど自分勝手で悪質である。
 また、そういうジャーナリストから情報を買って放送するマスメディアも同罪である。NHKでは、邦人拘束のニュースを流した直後に、フリーのジャーナリストがアフガニスタンでの戦闘の様子を撮影した映像を放送していたが、私は、どうしてこんな無神経なことができるのかが理解できない。次はこのジャーナリストが拘束されるかも知れないのである。まともな神経を持った人間なら、このジャーナリストから映像を買う前に、「危ないからアフガニスタンを離れなさい」と言うと思うのだが。

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