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ここでは、思いつくままにいろいろなことを書いていきます。
一体何がかいてあるか分からないというとんでもないページを堪能してください。
年月日 | タイトル | 概 要 | おすすめ度 |
2000.2.17 | きちんと「手抜き」しようね | 手抜きは必ずしも悪いことではない | *** |
2000.3.12 | 1日を48時間にする方法 | 1秒は思ったより長いから・・・・ | *** |
2000.4.3 | 日本は正確に測量されている? | 田舎に行くとかなりいいかげんだ | ** |
2000.4.9 | 間違えないより・・・ | 間違いとうまくつきあうには | **** |
2000.6.6 | 外見は意外と大事 | 外見より中身と言うが・・・ | *** |
2000.6.14 | 南北首脳会談について | 南北朝鮮の首脳は両方とも「金」氏 | ** |
2000.6.22 | ケイタイの着メロ | 着メロのいい点と悪い点 | *** |
2000.10.8 | 人間の総合力 | 総合力のピーク年齢と社会の中枢の年齢 | ***** |
2000.10.26 | カジノ誘致問題 | カジノには賛成だが・・・ | *** |
2000.11.12 | 押しボタン式信号機 | 押しボタンを1回押すと車は・・・ | *** |
さすがに年度末が近づいてきたので、仕事がかなり忙しくなってきた。毎年のことだが、この時期は殺人的なスケジュールをこなさなければならない。今年は、はっきり言って楽な方だが、それでも、残業がかなり多くなってきた。
おそらく、どんな人でも、1年に1度ぐらいは、目の回るほど忙しい時期があるだろう。そういうとき、私たちは、超人的な威力を発揮して、目の前の山のような仕事を片づけていく。だから、あとでヒマになったときに、そのときを思い起こしてみれば、よくあんな事ができたもんだ、と自分の事ながら感心するのではないだろうか。もし、そういう忙しい時期が一生続いたら、と思うと、想像するだけで倒れそうになるのではないだろうか。
ところが、これが他人の事になると話ががらりと変わってしまう。例えば、午後3時頃にレストランに行くとする。その時間は普通レストランはヒマだから、従業員の態度もキビキビはしていないはずである。すると、そういう従業員の態度を見て「なっとらん!」と怒る人は少なくないのではないだろうか。これが、ランチタイムの忙しい時間帯なら、従業員の態度もキビキビしている。我々はそういう姿が当たり前だと思っているので(通常、レストランに行く時間帯はランチタイムの時が多いから)、そうでない、ダラダラした態度を見ると、たるんでると思ってしまうのである。
しかし、最初に書いたとおり、一日中ランチタイムのように頑張るのはどだい無理である。それを理解していないと、3時頃の従業員の態度が、「なっとらん!」と思うようになるのである。
このように、我々は、仕事をしている人間が気を抜くのを許さない傾向がある。特に、日本は、精神力の国で、精神力さえ有れば何でもできると信じている人が少なくないので、こういう傾向は世界的にも高いであろう。これは、恐ろしいことである。
「手抜き」という言葉がある。決していい言葉とはとらえられていないが、「手抜き」の語源は囲碁からきている。今戦っている場所に石を打たずに、他の、もっと効率のよい場所に打つことを「手を抜く」という。これによって、今戦っているところでは不利になっても、全体としては有利になることが多い。したがって、「手抜き」というのは、決して悪いことではないのである。
囲碁は1度に1個しか石を置くことができない。であるから、一番効率の良い場所に石を置こうとする。今係争中の場所があっても、それより効率の良い場所があればそっちに打った方が有利であるから、「手を抜く」のである。
さて、実際の仕事に話を戻そう。さっきのレストランの例では、ランチタイムが重要な時間なので、その時間には集中力を使う。そして、ランチタイム以外は、ランチタイムほどの重要性がないので、「手を抜く」のである。つまり、手を抜いて、その分の集中力をランチタイムに回すのである。したがって、ランチタイム以外にダラダラしているのは、決して悪いことではないのである。
ところが、世の中には、集中力は無限にあると信じて疑わない人がいる。これは、囲碁で言えば、1度に2つも3つも石を置くことができると思っているのに等しい。こういう誤解があるから、必要性の薄いときに集中力を欠いた者を平気で非難できるのであろう。
人間の集中力には限界がある。その限界のある集中力を有効に使うため、必要性の薄いところでは積極的に「手を抜く」べきである。逆に、それができないと、本当に重要なところでミスをしてしまう。
そして、我々は、他人の些細なミスを厳しく非難することは厳に慎まなければならない。それをやってしまえば、些細なことに気を取られて大勢を見逃してしまい、取り返しのつかないことになってしまうだろう。
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金曜、土曜とこのページを休んでしまった。とはいっても、HP更新をさぼっていたわけではなくて、「おうち」占いの解説を執筆していたんで、こっちまで手が回らなかったわけです。仕事も忙しくなってきたので、ほんと1日が48時間ぐらい欲しいものだと思うこのごろです。ほんとに、今では1秒でも惜しい、ってな感じです。
ところで、1秒という時間、私たちはほんのちょっとの時間と思っているようですが、実は、この1秒という時間は、かなり長い時間なんです。
たとえば、野球をするとしましょう。草野球でも、ピッチャーの投げる球のスピードは、時速90kmはゆうに超えます。バッターは、この球を打つわけですが、バッターがこの球を打つためには、自分の前をボールが通過した瞬間にバットを振らなければならないわけです。仮に、バッターの前1mを通過する間にバットを振れば当たるとしたとき、その時間は、たったの0.04秒です。時速90kmぐらいのボールなら、ちょっとバッティングセンターで練習すれば、たいていバットに当てることは出来るようになりますので、私たちは0.04秒という短い時間に、ちゃんと行動できるわけなのです。こう考えると、我々人間が、生身で行動するのにすら、1秒という時間は(時間の最小単位としては)長すぎると言えるのではないでしょうか。
さて、それでは、こんなに長い1秒という時間、私たちはどのように認識しているのでしょうか。
簡単な実験をしてみましょう。
秒まで計れる時計を用意してください。時計が「00秒」を指したら、目をつぶって、30秒たったと思ったら目を開けて時計を見てください。さて、あなたが30秒だと思った時間は、いったい何秒だったでしょうか。
一度この実験をやってみたことがあるのですが、だいたい15〜20秒ぐらいで、30秒たったと思う人が多いみたいです。すなわち、私たちが感覚的に思っている1秒というのは、実際の1秒の半分ぐらいなのです。
ということで、この際、1秒の長さを、私たちが思っているのと同じ長さに変えてしまいましょう。そうすれば、1秒は今の半分になるから、1日が48時間になって、めでたしめでたし・・・・ん?それじゃ意味ないって?ま、確かに、1日の長さが本当に変わるわけではないんですけど、でも、こういうメリットもあるんです。
私たちはだいたい、スケジュールを5分単位ぐらいで決めてます。ところが、私たちがやることというのは、きっかり5分かかることばかりではありません。ところが、5分単位でスケジュールを決めていけば、5分より早くスケジュールが終わったとき、次のスケジュールまで時間があいてしまいますよね。具体的に例を示しましょう。
9:00〜 A社との打ち合わせ(所要時間 12分)
9:15〜 B社との打ち合わせ(所要時間 14分)
9:30〜 C社との打ち合わせ(所要時間 26分)
というスケジュールがあって、このあとにD社との打ち合わせを入れると、10:00からになります。もし、これを、1秒を半分にして、1日を48時間にしたらどうなるかというと、
−( )内は今の時間になおしたとき−
18:00(今の時間で9:00’00)〜 A社との打ち合わせ(所要時間 24分(12分))
18:25(今の時間で9:12’30)〜 B社との打ち合わせ(所要時間 28分(14分))
18:55(今の時間で9:27’30)〜 C社との打ち合わせ(所要時間 52分(26分))
というスケジュールになり、D社との打ち合わせは、19:50(今の時間で9:55)からできることになります。つまり、今の時間に直して、5分トクするわけです。
時間を変えるというのは大変かもしれませんが、考える価値はあるんじゃないでしょうか。
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・その3−日本の国土は正確に測量されているのか−2000年4月3日
日本は技術も発達している先進国である(と思っている人が多い)。当然測量技術もハイレベルである。だから、日本では国土の測量は寸分の狂いもなくなされていると思っている人が多いのではないかと思う。
ところが、ところがですねぇ、実はそうでもないんです。例えば、私たちが土地を買ったり売ったりするとき、土地の面積をきちんと測量します。そしてその測量した結果を法務局に登記します。この法務局にある土地の図面は、土地の所有権の根拠となるかなり重要な図面なのです。ですから、多くの人は、この図面(測量法17条地図という)は、国土の隅々まで、寸分の狂いもなく測量されていると思うのではないかと思います。
と・こ・ろ・が・、この17条地図、田舎にいくと目も当てられないほどに不正確、というかいい加減なのです。例えば、見ただけで数万〜数十万平方メートルはあるかという土地の面積が60平方メートルぐらいだったり、土地の境界が明らかにおかしかったり、ひどい場合は実際にはない土地が図面にあったりするのです。
こういう話をすると、うわー、こんなにいい加減なの?!・・と、思う方も多いでしょう。それでは、なぜこんなにいい加減なのでしょうか。
土地の境界の測量をするのには、おおまかに言って1平方メートル当たり200円程度のお金がかかります。1平方キロ当たりだと、この100万倍なので、2億円になります。これに、日本の面積、38万平方キロをかけると、76兆円になります。つまり、日本の国土の隅々まで正確に測量しようと思ったら、国の年間予算1年分近くのお金がかかるわけです。
そう考えれば、国土の隅々まで正確に測量するなんて、どだい無理な話だというのがわかるのではないかと思います。
私たちは、日本の技術や科学は進んでいるから、こういういい加減なものをみると、「何でこんなずさんな・・」って思ってしまいがちです。ところが、最先端の技術そのものがあるのと、最先端の技術が普及するのとでは、ものすごく大きな開きがあるのです。都会の人には信じられないかも知れませんが、日本には、まだ上水道(下水道じゃないですよ)のない家が結構あるんです。(井戸があるからいらないって人も多いのだが)道路にしても、狭くて、一度入ると、帰りには1kmぐらいバックして帰らなければならないなんて場所も結構あるんです。
都会の著名人の方は、「日本に公共事業はもういらない」なんて言っていますが、私みたいに田舎に住んでいると、「まだやらなきゃならないことはいっぱいあるなぁ」という感じを持たざるを得ないのです。
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このコーナーも読み返してみるといろいろなことを書いている。論調はいつも大体同じで、思いっきりおおざっぱな数字を出して、これまた思いっきりおおざっぱに計算して、それでもって大胆な結論を出す。私は、理系の人間で、周囲からは緻密だと思われているみたいなのだが、自分では私よりおおざっぱな人間はいないと思っている。
私はおおざっぱなので、間違いが非常に多い。恐らく、普通の人の10〜100倍は間違っているんじゃないかと思う。
これだけ間違いが多いと、間違いとうまくつきあっていかないとまともに生きていくことができない。このため、私は、「間違えない」ことより、「間違っても何とかなる」ことを考えるようになった。
例えば、手紙を書くとする。手紙というのはどうしても手書きで書かなければならないことがあるのだが、1文字間違えると、全部やり直さなければならない。このため、まず鉛筆で下書きしてから、間違いがないことを確かめてボールペンで清書するということをやる。あるいは、便せん1枚に書く文字数を少なくして、枚数を多くする。こうすれば、間違えたときに、その1枚だけ書き直せばいいから、被害が少なくなる。
こういう工夫をしているからか、これだけ間違いが多い人間でありながら、とりあえずなんとか生きていくことが出来ている。
「間違わない」というのは、人間にはもともと無理なことである。「間違いを少なくする」ことはできても、「間違いを0にする」ことはできない。だから、むしろ間違えたときに的確に対応し、被害を最小限に食い止めることが本当は必要なんじゃないかと思う。
医療ミスなんかが発生すると、「こんな致命的な事態になるまでなぜ間違いが分からなかったのか」という非難が必ず出てくる。はっきり言って、それを今の日本人に求めるのは無茶である。我々は「間違えないこと」はみっちり教育されてきたが、「間違ったときに的確な対応をする」ことは全く教えられていないのだから。まして、今の日本では「間違った」時点で社会から抹殺されてしまう。だから、「間違った」経験をした人というのは、社会の表舞台にはいないのである(正確には、「間違った」ことが発覚した人というべきだろうが)。「間違った」経験をしたことがない者が、間違いに正しく対処できるわけがないではないか。そう考えれば、今の日本の表社会で、間違いに正しく対処できる人間がいるわけがないのである。
これは、裏返せば、致命的な間違いを経験した人間というのは、二度と得難いほど貴重な人材なのだということでもある。だから、間違えた人に罰を与えるのは仕方ないとしても、そういう人間を社会から引きずりおろしてしまうことは、決して得策ではないのである。
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・その5−外見は意外と大事−2000年6月6日〜7日
さて、今日の話も例によって変である。
人や物事を外見だけで判断するのはいけない、とよく言われる。確かに、人は見かけだけでは分からないことが多い。とは言え、やはり外見はそれなりに重要なのではないだろうか。
例えば、自動販売機で烏龍茶を買うとする。このとき、我々は、「烏龍茶」と書かれた缶のところのボタンを押す(当たり前か)わけだが、よ〜く考えてみると、缶に「烏龍茶」と書いてあるからといって、中身が烏龍茶であるとは限らない。しかし、そんなことを言っていたのでは、烏龍茶を買うたびにいちいち中身をチェックしなければならなくなる。だから、私たちは、缶に「烏龍茶」と書いてあれば、中身も烏龍茶であると信じて買うしかないのである。
人とのつきあいもこれに似た状況は起きうる。就職とか結婚などのように重要なときは別として、我々は相手の素性をこと細かく調べることは少ない。そうすると、相手を判断するときには、どうしても外見で判断するしかない。そうすると、つきあいがそんなに深くない場合は外見で自分を判断されても仕方がないということになる。
とは言え、こういうことを悪用する連中は多い。だからこの問題は難しいのである。
−−−−−−−*******−−−−−−−
それでは、我々は外見をどう取り扱うべきなのか考えてみよう。
烏龍茶の話に戻るが、普通は、「烏龍茶」と書かれた缶のなかには烏龍茶が入っている。このへんは、実は法律なんかで規定されていて、「烏龍茶」と書かれた缶にレモンスカッシュを入れるのは違反になる。このほか、商法なんかにも、外見を信じて取り引きした場合の保護規定がある。つまり、外見が中身を正しく表すように、法律や規則が定められているのである。
こういう商売関係の話でなくても、良識のある人なら、自分の中身と外見を合わせるのが本当であろう。顔とかスタイルはそういうわけにはいかないが、例えば服装とかは、やはり自分を正しく表すものにするべきだろう。
「普段とは違った自分を演出」というファッションは結構ある。そういうのが悪いとは思わないが、気をつけないと思わぬ誤解を生む恐れがあるのではないだろうか。
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・その6−南北首脳会談について−2000年6月14日(水)
きのう、韓国と北朝鮮の首脳会談という、歴史的な会談が行われた。会談が延期になったり、土壇場でポシャるのではないかという憶測があったりしたのだが、いざふたを開けてみると、かなり友好的に会談が実現したみたいである。
ここで、奇妙な一致が1つある。韓国の大統領は金大中氏、北朝鮮の総書記は金正日氏。どちらも「金」姓である。
中国では、姓が同じということは、特別な意味があるらしい。同姓の人同士は、まるで親戚みたいに(本当に親戚の場合もあるのだが)親しくするのだそうだ。姓が同じであるということは、我々の想像以上に大きな意味をもつらしい。
今回の舞台は朝鮮半島だが、事情は似ているのではないだろうか。ということで、今回の南北会談がうまくいった(いきそう)なのは、両方とも金氏であるという一致が、実はかなり大きいのではないだろうか。
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・その7−ケイタイの着メロ−2000年6月22日(木)
いまや携帯電話は、老若男女だれもが持つアイテムになってしまった。そして、最近は、そのケイタイの着信音がメロディ−最近では3重和音まである−になっているもの、いわゆる着メロが氾濫している。今や、町中で昔のファミコンの音のような音楽が聞こえてくるのはあたりまえのことになっている。
この着メロ、使っているのは若者ばかりかというとそうでもない。結構年輩の方の携帯電話からも、いろいろなメロディが流れてくる。やはり、人間はいくつになっても、楽しいものには惹かれるのであろう。
さて、この着メロ、いい点と悪い点がある。いい点をあげれば、まず、楽しいということ、それと、他人の着信音と区別できることなどであろうか。
私の場合、だいたい3ヶ月ぐらいで着メロを変えることにしている。これは、何より気分を変えるためだが、例えば、いやな電話が多かったときなんかは、着メロを変えることで、電話がかかってくるたびにいやな記憶を思い出さなくてすむようになる。こういう効果は、意外とと重要である。
さて、悪い点だが、電話がかかってきたのに気づかない可能性があるということがあげられる。着メロはたいてい、お気に入りの曲を入れるから、例えば、部屋で着メロの曲と同じ曲を聴いていたときなんかは、着メロに気づかないということは十分あり得る。
また、着メロは電子音なので、同じ電子音が氾濫するゲームセンターでは、電話がかかってきたのに気づきにくい。
こういうことを考えながら、私は誰も知らないような曲を着メロに選んでいる。というより、私の携帯電話は、自作着メロが54音しか入らないので、それに入る曲を選ぶと、入れられる曲は限られてしまうという事情があるのだが。
註:2000年9月に作者のケイタイはiモードに変わりました。このHPではiモード用のコンテンツをいろいろ用意しています。
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・2000年10月8日(日)−人間の総合力
最近いろいろあって、脳に関する本なんかをいろいろ読んでいるのだが、その中で、人間の総合的な能力が一番高いのは50歳ぐらいである、というのがあった。今日はこれについての話をする。
人間は生まれてから、年とともに成長していき、体力、知力ともに強くなっていく、そして、20台後半ぐらいから、体力が衰え始め、知力も30台後半ぐらいから落ち始める。反面、人間は年とともに経験を積み、学習を重ねていき、これは年齢とともに強くなっていく。この経験、学習というものの威力はすさまじい。
例えば、20歳の人と50歳の人が腕相撲をしたとき、単純に筋力だけで考えれば20歳の人が強いはずなのに、得てして50歳の人が勝つということが起きる。これは、50歳の人の方が、力の入れ方とか、勝つ戦略とかに長けているからで、力の入れ方、戦いのもっていきかたにムダがないからなのである。
このように、単純に力比べと思えるものについても、経験や学習は有力で、しばしば経験のない若者は、力任せに壮年に挑んで手痛い敗北を喫するということになるのである。
そういうわけで、今までは年輩の人が何かにつけて上というのが通常だったが、最近になって情勢が変わってきたような気がする。
1つは、高齢化社会の到来によって、社会の中心を担う世代が上の方にシフトしてしまったことである。今や、社会の至る所で、実権を握っているのは70歳代の人が中心になってしまっている。いくら経験が重要と言っても、70歳にもなれば総合力は落ちてくる。そうすると、そういう人たちに率いられた社会全体の力がダウンするのは避けられない。
もう1つは、社会の変化が激しくなりすぎているということである。旧版「の〜たん(5月22日)」でも書いたが、社会の変化が激しいときは経験はむしろ有害な作用さえする。三宅島の噴火で、火山予知連が予知に失敗したが、あのように、過去に起こったことと違うことが起こるような場合は、むしろ経験がない方が柔軟に対応できる。特に、最近進化を続ける情報通信の分野では、1年、いや1ヶ月前の常識さえ通用しなくなっている。これだけ変化が激しいと、過去の経験に照らし合わせたものの考え方というのは、むしろ失敗の元凶になってしまう。
このように考えると、今後、経験の価値というのはだんだん下がってくるのではないかと思う。そうすると、最初に書いた、人間の総合力のピーク年齢は、だんだん下がってくるのではないだろうか。
高齢化社会の進行に伴い、社会の中心に座る人の年齢はだんだん上がってくる。おそらく、最終的には社会の実権を握るのが80歳代になってしまうだろう。それとは逆に、人間の総合力のピーク年齢はだんだん下がり、おそらく最終的には30歳前後まで低下するだろう。しばらく前までは、総合力のピーク年齢と、社会の実験を握る年齢がだいたい一致していたからよかったのだが、これから先、下手すると、この両者の間に50年近くのギャップができてしまいそうである。
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・2000年10月26日(木)−カジノ誘致問題
バブル時代に、宮崎にも総合リゾート施設という鳴り物入りで、「シーガイア」というものが作られた。サミット外相会議の会場となったので、知っている人も多いのではないかと思うが、このシーガイア、ほとんど倒産寸前の状態にある。
県や市が第三セクターで出資していることもあって、行政側ではなんとか再建を図ろうと、なりふりかまわずのことをしている。
このカジノ誘致問題も、その「なりふりかまわず」の一つである。これは、日本では許されていないカジノを合法化して、シーガイアでカジノをやろうという計画である。自分に都合の良いように法律をいじくり回して何とかしようという態度には疑問が残るが、それはさておき、日本でカジノをやるということがどうなのかについて考えてみる。
結論から言うと、私はカジノの開設には賛成である。ただし、賛成といっても、おそらく、大方の人が思っているのとはかなり賛成の内容が違うだろう。
日本では、意外とトランプゲームの普及がなされていない。おそらく、日本で最も遊ばれているトランプゲームは「大富豪」だろうが、それとてあまり頻繁には見かけない。
欧米では、コントラクトブリッジに代表されるトランプゲームが、当たり前のように普及していて、世界大会が開かれているゲームも少なくない。反面、日本では「コントラクトブリッジ」というゲームの名前すら知らない人が大半ではないだろうか。
私がカジノに賛成する理由の一つは、世界的に有名であるにもかかわらず、日本で知られていないトランプゲーム(それ以外のゲームも)をもっと普及すべきではないかというところからきている。
国際化は、海外のまねをすることではない、とはいうものの、海外で誰でも知っているものを日本人の多くが知らないというのは、決していい状況とは言えないだろう。
もう一つの理由は、日本人にゲームというものの本質を知って欲しいということがあげられる。だいぶ昔になるが、図書館で借りたトランプゲームの本に、「イギリスでは王侯貴族が子供の小遣い銭程度の少額を賭けてトランプゲームをしている」というのがあった。要するに大金持ちが10円、20円という金額で賭けトランプをしているという感覚である。私は、これっていいなぁと思った。この感覚に、ゲームというものの本質があるのではないかと思うのである。
つまり、「ゲームをより楽しむために賭ける」という感覚である。日本では、競馬でもパチンコでも、どちらかというと「賭けて儲けるためにゲームをする」になってしまっている。であるから、パチンコに何百万もつぎ込んでしまう人が後を絶たない。そういう人たちは、とてもパチンコそのものを楽しんでいるとは思えないのである。
イギリスの王侯貴族の話に戻ると、彼らはトランプで儲けようとは思っていない。ただ、人間というものは何かしら実質的な利益がないと真剣にならないから、ゲームをより緊迫感のある面白いものにするため、少しだけお金を賭けるわけである。こういう、「ゲームを楽しむために賭ける」という感覚を、日本人の多くが理解して欲しいというのが、カジノ開設に期待する理由の1つである。
そういうわけで、私が賛成しているカジノの内容は、おそらく、今の政治家たちが考えているものとはかなり違っている。すなわち、アメリカやヨーロッパから一流のディーラーを連れてきて、欧米のゲームスタイルを味わうことができる場所。少しだけお金を賭けることができて、それで、ゲームそのものを楽しむことができる場所。私がイメージしているのはそういう雰囲気のカジノである。
カジノには、反対意見も多いが、私がイメージしたような意味のカジノなら、健全性が損なわれないから、反対意見も少なくなると思うのだが、どうだろうか。
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・2000年11月12日(日)−押しボタン式信号機
世の中には押しボタン式の信号機というものがある。説明するまでもないとは思うが、歩行者や自転車が道路を渡りたいときにボタンを押したときだけ信号が変わるタイプの信号で、車道が交差していない横断歩道とかによく見られる。
この押しボタン式信号機だが、車の側からすれば、歩行者が渡るために、本来止まる必要がないのに止まらなければならないわけだから、ある意味迷惑である。もちろん、歩行者が横断歩道を渡るのは当然の権利だから、歩行者は堂々と車を止めていいわけだが、ここでは、押しボタンで車を止めるとどれだけ車が迷惑するかを計算してみたい。
押しボタンを押すと、しばらくして車道側の信号が黄色→赤と変わり、その後歩行者の信号が青に変わる。その後歩行者の信号が青の点滅→赤と変わって、車道側の信号が青に変わる。この、車道側の信号が赤になってから、青になるまでの時間は、普通の2車線道路でだいたい30秒である。したがって、信号に引っかかった車は、この30秒の半分(途中で信号にさしかかった車を考えた平均)の15秒に、加減速のロスの約5秒を足して、20秒だけ時間の損となる。
1回信号を赤にしたときに、何台の車が止められるかは、交通量によっても違うが、郊外の比較的交通量の多い道路を考えたとき、平均5〜6台ぐらいになる。そうすると、
時間のロス=20秒×5台×1.5(1台の車に乗っている平均人数)=150秒
となる。
また、1回の加減速で、ガソリンを約20ミリリットル消費するので、
ガソリンのロス=5台×0.02=0.1リットル
となる。
したがって、押しボタン式信号で1回押しボタンを押すと、
150秒+ガソリン0.1リットルのロス
が発生するわけである。
時間1時間=2000円、ガソリン1リットル=100円とすると
2000×150÷3600+100×0.1=93.3円
となる。
つまり、1回押しボタン式の横断歩道を渡ると、車側に平均して約100円の損をさせていることになるわけである。
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