INDEX
・2000年5月1日(月)
とうとう5月になってしまった。今日5月1日は、労働者の祭典、メーデーなのであるが、どうやら5月1日にメーデーが行われるのは、今年が最後になってしまうようである。5月1日は連休の真ん中で、参加者が少なくなるというのがその理由のようだが、メーデーそのものに、というより労働組合そのものに魅力がなくなってきたというのが本当のところであろう。
一方、自民党は労働組合から民心が離れたこのチャンスに労働組合を潰そうとしているようである。労働組合の組合費の給与天引きを禁止する法案を出したりしている。
労働組合といっても、その幹部はやっぱり社会的には上層部の人である。正直なところ、そんな人が末端のことを考えているとはとても思えない。
さて、こんな話をしても面白くないし、話が暗くなるだけなので、今日は、ちょっと違った話をしてみる。
中米のグァテマラで、日本人観光客が地元住民に撲殺されるという事件が発生した。
私は、その前の土曜日に、いつも行く店のマスターとコーヒーの話をしていて、そのとき、グァテマラのコーヒーがうまいとか、そういう話をしていた。ちょっと前にそういう話をしていたので、何か偶然にしてはできすぎかなぁなんて思ったりもした。
また、ちょっと前の話になるが、3月6日の「の〜たん」では、鉄道事故の危険性についての話をしているが、その数日後に営団地下鉄で脱線事故が起きている。こういう事が続くと、「あれ、ひょっとして、僕って、予知能力がある?」なんて思ってしまう。
さて、ほんとうに、こういうことがあると、予知能力があると言えるのだろうか。
最初の例では、前の土曜日に話していた国で事件が起きたという偶然(?)である。この偶然が起きる確率はいくらだろうか。
世界の国の数を200とすると(あいかわらずおおざっぱ)、こういう偶然が起きる確率は200分の1である。が、それは、事件も1ヶ所、話した国も1ヶ所の場合である。ところが、実際は、マスターと話していた中にも20ぐらいの国は出てきているし、事件が起こったのも小さいのまで入れれば20ぐらいはある。さて、そうなると、マスターと話した20の国の中に、事件が起きた20の国のどれか1つ以上が入っている確率をださないといけない。それはいくらだろうか。
これは、次のような式で計算できる。
確率=1−(200-20)P20/200P20
ここで、200P20というのは、200個の異なるものから20個を選んで並べたときに、何通りの並べ方が出来るかを計算する式で、その値は
(200*199*198*・・・*181)/(1*2*3*・・・*20)
という計算をすれば出すことが出来る。その計算結果なのだが、なんと
約89.1%
という結果になった。つまり、20個も国の名前を出せば、その中に事件が起きた国が入っていない方が珍しいということなのである。
このように、一見珍しいことのようでも、確率の計算をしてみると、実はそんなに珍しくないということは結構ある。有名なのが、
クラス50人のうち、同じ誕生日の人が1組以上いる確率
というものだが、これを計算してみると、なんと、約97%にもなってしまう。
このように、私たちが、一見珍しいことと思うことが、実は当たり前に起きるということは多い。こういう錯覚を利用すると、簡単に予言者とか、当たる占い師を装うことができる。私が、昨日書いた、「占い師は統計学を知っていなければいけない」というのは、ともすると占い師自身が、この錯覚に陥ってしまうことがあるからなのである。
・2000年5月4日(木)
連休中なので、曜日が分からなくなってしまっている。昨日、その前の日と、帰りが遅かったので、ここも連休中はお休みにしようかとも思ったのだが、ここで休んでしまうと永遠に休んでしまいそうなので、今日と7日ぐらいは書いておこうと思っている。
今日は「国民の休日」という日で、法律で「前後両方とも祝日の日は国民の休日とする」ということになっていて、いまのところ今日だけが該当するので休みになるのである。さらに、今年は、「成人の日」と「体育の日」が、月曜日にシフトすることになった。合理的といえば合理的だが、これで休みが有効に使えるようになった、といいたいところだが、日曜日や休みの日が仕事という人はけっこう多い。
普通のサラリーマンみたいに、日曜日が休みでない職場の人は、友達と遊びに行ったり、あるいは恋人とデートしたりというのが難しい。友達や恋人と休みが合わないというのがその最大の理由である。例えば、看護婦さんなんかは、日曜だろうが、正月だろうが、だれかが残って仕事をしなければならない。そのほかにも、スーパーとか、デパートとか、どうしても日曜日に休めない仕事は結構ある。
さて、それでは、どうしても日曜日に仕事をする人がいなければならないとして、どうにか休日をあわせやすいようにできないだろうか。
ここで、例をあげて考えてみよう
ある工場では、A,B,C,D,Eの5人が働いている。休みは週に1回だが、工場の機械を止めるわけにはいかないので、5人のうち3人は常時仕事にきていないといけないという設定とする。
つまり、一度に2人しか休めないわけだが、このとき、Aさんが他の4人全部と同じ日に休めるようにするためには、4回は休まないといけない。つまり、Aさんが、他のB〜Eさんのだれかをさそって遊びに行こうとしたとき、その機会は4週間に1回、つまり、月に1回、回ってくる計算になる。
こう考えると、月に1回は他の誰とも休みが合う日が来る、ということがなんだかできそうな気がする。つまり、労働者を5つのグループに分けて、例えば次の表のように休みを設定し、それぞれのグループの人は表の休みの日は必ず休みになるようにする。
グループ | 必ず休みとなる日 | |||||||||
Aグループ | 第1 土曜 |
第2 水曜 |
第3 土曜 |
第4 日曜 |
||||||
Bグループ | 第1 土曜 |
第2 土曜 |
第2 日曜 |
第3 日曜 |
||||||
Cグループ | 第1 日曜 |
第2 水曜 |
第2 日曜 |
第4 土曜 |
||||||
Dグループ | 第1 日曜 |
第2 土曜 |
第3 土曜 |
第4 水曜 |
||||||
Eグループ | 第3 日曜 |
第4 水曜 |
第4 土曜 |
第4 日曜 |
こうすれば、1ヶ月に1回はどのグループの人とも必ず休みが同じになる日ができる。
もっとも、この方法では、3人以上が集まる場合はうまくいかない場合があるから、これで十分かというとそうはいかないのだが。
・2000年5月7日(日)
3年近く使っていたパソコンが、とうとう壊れてしまった。ハードディスクの起動に関する部分(昔はIPLと言っていた)が物理的に損傷してしまったので、何とかデータの保全はできたものの、ほとんど使い物にならなくなってしまった。仕方がないので、新しくノートパソコンを買ってきた。
新しくパソコンを買い換えたときに問題となるのが、古いパソコンのデータをどうやって新しいパソコンに移動させるかである。昔なら、フロッピーディスクで移動させればよかったのだが、今となってはそうはいかない。重要なデータを厳選したとして、数百メガバイトは移動させなければならない。そうなると、とてもフロッピーでは移動できない。
かといって、MOやZIPを使うと言っても、こういうものを持っている人が少ない上、下手すると古いパソコンと新しいパソコンの間で互換性がなかったりする。裏技的な方法として、外付けハードディスクを使うと言う方法があるが、これは危険なのであまりおすすめできない。
結局、私はスマートメディアを使うことにした。フロッピーアダプタを使えば、フロッピードライブで8メガバイトまでデータのやりとりができるので、フロッピーよりは効率的である。
しかし、これとて数百メガバイトのファイルを動かすのはかなり厳しい。とりあえず、大事なデータ30メガバイトぐらいを移動させて、あとは必要に応じて少し少しずつ移動させていこうと思っている。
そのうち、USBを経由してパソコン同士で直接データのやりとりができるようになるのかもしれない。
・2000年5月8日(月)
とうとうというか、ようやく連休が終わった。今度の連休は、パソコンが壊れたりで何にもできなかった。その代わり、新しくノートパソコンを買ってきたので、それが唯一の進歩といえばそうであろう。
休みを有効に使う上で一番大切なことは、仕事のことはいっさい忘れることである。休みという時間軸は、仕事の時の時間軸とは全く違う次元のものだと思った方がいい。そうでないと、休みを自分のためにきちんとつかうことができなくなってしまう。
私の場合、今回は胃の急激な痛みから始まって、パソコンの故障による徹夜から、肩の痛み、不眠と、さんざんであった。連休でリフレッシュどころか、ボロボロに近い状態にまで陥ってしまった。
休みの日は寝る。これはある意味で賢明な選択だろう。私の場合、休みにはなにか(仕事以外で)やらなければならないというプレッシャーが異常に強く、それが結局足を引っ張って、なにもできない上に、結局疲れもとれない、下手すると休みがないよりも疲れてしまうという状態になってしまう。今回の連休はそういう意味では最悪であった。
もっとも、収穫もなかったわけではない。まず、懸案だったノートパソコンを買うことができた。20万で、K6−2(475MHZ)に12ギガのHDD、12.1インチTFT液晶だから、かなりのお買い得品である。それ以外にも、テニスとかいろいろすることはあって、7日のうち3日は、それなりに休んだ意義があったといえよう。
残念なのは、このHPをグレードアップさせようと思っていたのができなかったことである。一つには、構想がうまくまとまらなかったこともあったのだが、ある意味で、このHPには、私の今後の人生に新しい風を吹き込んでほしいという期待が込められているので、大げさに言えば私の人生のビジョンまでがこのHPの内容に関わってくる。そういう意味で、この連休中に、自分の人生のビジョンが確定できなかったというのが、このページを刷新できなかった最大の理由みたいである。
・2000年5月9日(火)
今度買ったパソコンがノートパソコンなので、今日から職場に持っていく。とりあえず、しばらくは持ち運びをしようと思っている。
やはり仕事で必要だったので、9年ほど前にノートパソコンを買ったことがあるのだが、今度のパソコンはそれと比べても格段に性能がいい上に、値段も安い。パソコンの進化というのはすさまじいものだ。
というものの、その当時のパソコンでやっていることと、今のパソコンでやっていることは、あまり変わらなかったりする。9年前も、パソコンで表計算とワープロをやっていたのだが、今も(内容がいくらか高度になったとはいえ)やることは変わらない。ハードの進歩に比べて、ソフトの進歩は遅いみたいである。
さて、このソフトウェアなんだが、いまではソフトの重要性はここで言うまでもないぐらいに多くの人が認識するようになってきた。日本人は「モノ」つまり物体にしか価値を認めない傾向が強かったので、ある意味革命的な意識変化である。
ところが、これにお金がからんでくると、話はかなり異なってくる。物体としての形のないソフトに対してお金を払うかというと、多くの日本人は抵抗を感じる。ソフトの有用性、重要性は認識しているのだが、それに経済的な価値を認めてはいないのである。であるから、ソフトの違法コピーはあとを絶たない。
このように、存在の有用性は認められていても、経済的な価値は認められていないというものはほかにもある。例えば主婦の家事労働なんかがそうである。こういうものは、カネですべてを計ろうとする傾向が強くなると、軽んじられてしまう傾向がある。このため、こういう、従来カネに換算しなかったものも、無理矢理カネに換算してしまうというようなことが生じてしまう。一番極端な例が、宗教の信仰であろう。信仰などというものは、本来カネで計るべきものではないはずである。ところが、いつしか、高額のお金を納めるほど信仰が厚いというふうに変わってきている。身近なところでは、初詣で高額のお賽銭を入れるほど御利益があると思う、なんてのがこれに該当する。そして、このような傾向が、宗教団体(あるいは宗教を語る者)が信者から高額の金を巻き上げるという事件の温床となっているのである。
世の中には、カネに換算してはいけないものがあるのではないかと思う。こういうものについては、カネで価値判断をするのではなく、価値判断をするための別の尺度を用意する必要があるのではないだろうか。
・2000年5月10日(水)
5月も10日になってしまった。うかうかしていると、いつの間にか2000年が終わっているということにもなりかねないスピードである。
さて、今日は久しぶりに変わった話をしてみる。
※例題
ある人が、小田原から東京まで引っ越すことになった。この人は1人暮らしなので、荷物は軽トラック1台ですべて運べるとする。さて、この人が小田原から東京まで引っ越すのに、いくらかかるだろうか。引っ越しは1日で終わるものとする。
なお、軽トラックのレンタル料は1日4000円、小田原から東京までの距離は100kmとし、この軽トラックはガソリン1リットルで10km走るとする。ガソリンの値段は1リットル100円とする。
こういう問題が出たとき、我々はだいたいこういう解答をする。
※解答例
軽トラックレンタル料 4000円
ガソリン代 (100km*2(往復)÷10(km/リットル))*100(円/リットル)
= 2000円
合計 6000円
したがって、この引っ越しには6000円かかる。
数学の問題なら、この解答で正解がもらえるだろう。
それでは、実際に引っ越しをしてみよう。
荷造りはすべてすんだ。まずレンタカーを借りにいこう。レンタカー屋さんは・・・一番近いのは、バスで10分のところか・・・(バスに乗る、バス代100円かかる)
・・・レンタカーを借りて、4000円ですね、え?消費税は別?それに、保険料が500円かかるの?じゃぁ、合計4700円になるわけ?・・・しぶしぶ(と4700円払う)
気を取り直して・・・荷物を積んで、・・・あ、ひもが切れそう、補強しないと。えーと、ひもは・・・ないからコンビニで買ってくるね・・・(ひも代200円)
積み込みが終わって、さあ、出発。
(小田原をでる)
(東京まで順調に走る)
さーて、次は荷物の積み卸しだ。
−−がんばって荷物の積み卸し中−−
ここでもトラブルはなかったことにしよう
さーて、荷物も積みおろしたことだし、トラックを小田原に返そう。
(小田原まで走る)
ガソリン入れないとね、「すいませーん。満タン!」
・・・・
はい、20リットルで2000円になります。
はい、2000円(これは予定どおりだな)
(レンタカー屋に戻り、軽トラックを返却)
さーてと、帰るか・・・って、帰るのは東京までだよね。
(東京まで電車賃600円)
さて、いくらかかったか計算してみると、7600円かかってますね。しかも、ここでは道中のトラブルもないし、食事もしてません。そういうものを入れると、10000円ぐらいにはなってしまうでしょう。
ということは、最初に出した数学的な6000円という答えでは、全然足りないということになるわけです。
何か事業とかプロジェクトをやろうとするとき、私たちは最初にやったような数学的な方法で予算をたてます。ところが、実際には、最初に予測した以外の事態が発生することは珍しくありません。そうすると、最初に数学的に計算した予算ではお金が足らなくなってしまいます。
ですから、プロジェクトなどの予算を組むときには、こういう不測の事態にそなえて、ある程度予備的な経費を見込んでいなければいけないのです。ところが、予算を担当する多くの人−例えば、組織のトップとか、役所の財政当局とか−は、こういう根拠のないものにはお金を出そうとしません。そうすると、現場でプロジェクトなどを実施するときに、どうしても無理が生じてしまいます。こういう無理は、しばしばトラブルの原因となったり、場合によっては事故とか不祥事の原因になったりします。
不測の事態にかかるお金というのは、なかなか対外的に説明しにくいものです。ですから、大きな組織とか、公共的な組織のように、多くの人にお金の使い道を説明しなければならない組織では、こういう不測の事態に備えた予算を確保することはものすごく困難であると思われます。しかし、こういう不測の事態のための予算は、現場では絶対に必要となる予算です。これを多くの人が理解しないことには、大きな組織や公共的組織での事故や不祥事というのはなくならないのではないでしょうか。
・2000年5月11日(木)
ちょっと前からメーリングリストというものに参加してみた。参加者の発言が、リスト登録者にメールで送られてきて、それに返事を書いたり、みんなに話しかけたりするという感じの場所なのだが、1日に30通近くのメールが来る。そんなんで、全部読むのはかなり困難なうえ、それなりに読んでおかないと、その場に参加してなにを発言していいかわからなくなってしまう。つまり、ついていけなくなってしまうのである。
仕事が超忙しいなか、こういう場に参加したことを少し後悔しているのだが、今更やめるのももったいないので、とりあえず参加だけは続けておこうと思っている。
で、何のメーリングリストに参加しているかというと、マジック・ザ・ギャザリングというカードゲームのコーナーです。このカードゲームは、なかなか面白く、専門の雑誌も出ているので、結構知っている人もいるかと思います。現在30人ぐらいが参加しているようです。
実はこのHPにも、マジック・ザ・ギャザリングのことを書こうかとも思ったのですが、このゲームのホームページはたくさんあるので、ここでかいてもなぁと思って、自粛しているところです。
・2000年5月12日(金)
今日は、久しぶりにまじめな話をする。
バブルが崩壊して以来、運用して増やすからといって他人からお金を預かっておいて、返さない(返せない)というトラブルがあちこちで発生している。たいていは怪しげな金融方面の会社なんかが、一般の人や会社などからお金を集めて、それが返せなくなっているというものである。そして、こういう事件の多くは、詐欺罪として摘発されることが多い。
私は、こういう事件のニュースをみるたび、詐欺でつかまえるのが本当に正しいのか疑問に感じる。
詐欺というのは、結構あいまいな概念である。例えば、店に行って1000円札1枚を出して1000円のものを買ったとする。すると、ちょうどだからお釣りはないはずだが、なぜか9000円のお釣りをもらったとする。この場合、9000円のお釣りをもらった人は、どうなるのかかんがえてみよう。
まず、
1.店員が出された千円札を1万円札と勘違いして9000円のお釣りを出し
出した方も1万円札を出したつもりで間違えて千円札を出した場合。
この場合は単純な間違いだから、この人は何の何の罪にもならない。もちろん、9000円は返さないといけないが。
2.店員が勘違いして9000円のお釣りを出し、出した方は間違いとわかって
いながら9000円を受け取った場合。
この場合は9000円を受け取った人は横領罪に問われる可能性がある。
3.店員が勘違いして9000円のお釣りを出したのだが、出した方が、千円札
を1万円札に見せかけて店員に勘違いをさせた場合。
この場合はれっきとした詐欺罪である。
このように、一見同じことが起こっていても、そのときの状況に応じていろいろなパターンが考えられるはずである。
現在、多くのところでトラブルになっている事件も、最初から金をだまし取るつもりだったのか、それとも最初は増やせると思って預かったが失敗して増やせなかったのかで、罪状は違うはずである。ところが、ニュースになるほとんどの事例は、一律といってもいいほど詐欺罪(会社の内部の人間が会社に損させている場合は特別背任)でつかまっている。
さっきの例などでは、1.2.3.のどれに当たるかは、1000円札を出した本人しか分からないし、どれかを確定させる証拠も(だますための小道具が見つからない限り)あるわけがない。そんな微妙な状況で、しかも、十分な証拠などあるはずがないのにもかかわらず、なぜあの手の事件は全部詐欺になるのだろうか。不思議でならない。
・2000年5月14日(日)
今日のニュースで、例のバスジャックの少年が犯行前にインターネットの掲示板に犯行をほのめかすカキコをしているという報道があった。そして、そこでほかの人からひどいレスをもらったことが犯行の引き金になったかもしれないということであった。インターネットをする者として、この報道は何かショックだった。もしかしたら、この掲示板に誰かが適切なレスを返していたとしたら、ひょっとしたら犯行が防げたかもしれないと思うと、なんかしまった!っていう気になってしまう。特に私は占いをやっていて、結構いろんな人の悩みとかを解決してきているという自負があるので(自分で思っているだけかもしれないが)、何か残念である。
ところで、最近の高齢化のなかで、高齢者の福祉とか介護とかの問題はいろいろなところで取り上げられるようになってきた。ところが、高齢化社会で全くと言っていいほど考慮されていない大きな問題がある。それは、若者が希望を持つことができないということなのである。
高齢者が多くなるとどうなるか。日本は年功序列なので、高齢者が多くなると、社会の高い地位を多くの高齢者が占めることになって、結果的に若い世代は閉め出される。実際、私の職場でも、私が入った頃に比べて、係長に上がれる年齢が5歳ほど遅れている。さらに、最近では、若い世代が就職すらできないという状況が発生している。つまり、社会に参加することすらできないのだ。
また、高齢者が多くなると、日本は多数決なので、当然高齢者に有利な政策ばかりが採用され、若者は疎外されてしまう。もともと、日本では年上が偉い社会なので、若者が年上に対抗するには、数の力に頼るしかなかった。ところが、今や若者は数でも高齢者に遠く及ばなくなってしまった。これではもはや若者に勝ち目はない。このような状況なので、若者が社会のなかで希望がもてるわけがないのである。
このように、若者が社会に希望が持てないとなってしまうと、自分を主張するには、社会に背を向けるしかない。そして、それは、しばしば犯罪という形をとってしまうだろう。つまり、最近少年犯罪が激増している大きな理由の1つとして、少年が社会に対して希望を失っているということがあげられるのである。
だから、我々は、子供や若者に希望を持たせなければならない。その希望というのは、生活に不自由しないとか、経済的に豊かになるとかいうのではなく、若者が社会に出て活躍できるようになるという希望なのである。そのためには、現在年長者が占めている社会の重要なポストを、できるだけ早く若い世代に引き渡すべきなのである。年長者にとって、これは抵抗が大きいかもしれない。確かに、今の年長者は、まだまだいくらでも仕事はできるし、経験も能力も若者より遙かに上である。しかし、だからといって、いまの若者はダメといって社会に入れないのでは、若者はいつまでたっても経験を積んで成長することができない。
今の若者はダメと、年長者は思うかもしれない。しかし、ダメならなおさら、早く社会の重要なポストにつけて経験を積ませなければいけないのである。
・2000年5月17日(水)
今日、私の母が高熱を出して病院にいったところ、病院では点滴を打ってから、風邪薬をくれただけであった。40度近い高熱がある以上、ウイルス感染とか、ふつうの風邪とは違うなにかがある可能性が否定できない中、こういう処置でいいのか、疑問が残る。
医療ミスが日本の至る所で起こっている。ミスをした医師や看護婦を責めるのは簡単だが、それでは何の解決にもならない。
私たちは、医療現場で起こるミスを、初歩的なモノといって激しく非難するが、初歩的なミスなら、患者側が気づいてクレームをつければ、最悪の事態は防げるはずである。患者が気づかないようなミスは、初歩的とは言えないはずである。
また、こういうミスを多くの人が気づくようにするためには、我々医者でない者も、初歩的な医学の知識ぐらいは身につけておくべきであろう。初歩的なミスといって医者を非難するのであれば、それが是正できるくらいの医学的知識を、素人も持っていなければならないのではないだろうか。
・2000年5月18日(木)
現代ではマスメディアが発達していて、国内で起こった主だったことが即座に全国に伝わるようになってきている。だから、現代では、昔では考えられなかったほど社会のいろいろなことを知ることができるようになっている。
ところで、これってほんとにいいことなのだろうか。
たとえば、凶悪な殺人事件のニュースが報道されるとする。そうすると、このニュースを聞いた人の中には、自分も被害に遭うのではないかという恐れをいだく人がいるだろうし、中にはこれに刺激されて自分も事件を起こそうという人もいるだろう。どちらにしろ、この報道を聞いたことによってネガティブな方に心が動いている。
それでは、逆にいいニュースだとどうか。例えば、先日発表された長者番付のような報道があったとき、それを聞いて自分もやるぞ!と希望を持つ人、自分と比べてみじめな思いをする人が半々ぐらいであろう。
つまり、悪いニュースの時は心がネガティブな方向に動き、いいニュースのときは、心がポジティブに動く人とネガティブに動く人が半々ということになる。そうすると、全体として、人の心が報道によってネガティブな方向に動いてしまうということになる。
マスメディアの発展は、いいことのようではあるが、こう考えるとかえって人間の心を暗くしてしまうものなのかもしれない。いろいろと世相の暗い昨今、マスメディアは、人の心を明るくするような報道の仕方をする必要があるのではないだろうか。
・2000年5月22日(月)
非常に恥ずかしい限りなのだが、私はこの年まで海外に行ったことがない。友人からしきりに行ってみるよう進められているのだが、仕事の都合上そう簡単にはいかない。学生のころに、借金してでも行くべきだったと思うこのごろである。
さて、海外に行ったことがない私が外国の話をすると、「行ったこともないくせに」と必ず言われる。海外に行ったこともない人間が、海外のことが分かるわけがないというのである。確かにそれはそのとおりであろう。だから、私は海外の話をする場合は、自分で見ていないということを前提にして、間違いがあるかもしれないということを考えながら慎重に話すことにしている。
それでは、逆に、海外に行ったことがある人はどうかというと、自分が行ったことがあるという強みで、海外のことを雄弁に話す。そして、時には、外国というものはこうだと、断定的にすらなる場合がある。
ところで、ちょっと考えてみてほしい。普通は海外に行ったことがあるとはいっても、多くて100回ぐらいだろうし、行った場所もせいぜい数10箇所だろう。ということは、海外に行ったとは言っても、そのうちの1%にも満たない所しか見ていないのである。それなのに、海外はこうである、と断定的に言えるものだろうか。
経験というものは重要なものである。多くの経験を積むことによって人間は成長し、大きくなっていく。だが、経験といえども万能ではない。一人の人間が経験できることは、世の中に起きていることのほんの1部に過ぎない。だから、経験を過信してしまうと、とんでもないことになってしまうのだ。
ベテランとよばれる、その道の経験を積んできた人には、自分の経験に絶対の自信を持っている人が少なくない。それはそれでいいのであるが、自分の経験から得た結論だけが正しいと信じてしまい、それ以外の結論は間違いと決めつけてしまうことが珍しくない。こうなると、経験がむしろ有害だと言わざるを得ない。
私は、経験は時として有害な作用をすると思っている。例えば、私は、DOS版のロータスに慣れきっていたため、WINDOWS版のロータスの操作に慣れるのにかなり苦労した。そして、エクセルが主流になりつつある今、どうしてもエクセルになじめないでいる。これなど、過去の経験が有害な作用をしている格好の例である。
経験というのは大切なものだが、あくまでも自分の経験は世の中のほんの一部でしかないということを、常に自覚しておかなければならないのではないだろうか。
・2000年5月23日(火)
いつの間にか、このサイトは、「おうち」占いと「の〜たん」の2本立てみたいになってしまった。そろそろ、新しいコーナーを設けて活性化を図ろうと思っている。
さて、今日は久しぶりに占いの話をしよう。
例えば、タロット占いを考えてみる。タロットの大アルカナには22枚のカードがあり、これにそれぞれ正位置、逆位置があるから、全部で44通りの意味がある。このうち、いい意味と悪い意味がどのくらいの割合であるかを考えてみよう。人によっていくらか解釈に違いはあるだろうが、正位置で悪い意味のカードは「死神」「吊られた男」「悪魔」「塔」「月」の5つで、このうち逆位置も悪い意味のカードが「吊られた男」「塔」というのが平均的なところだろうか。そうすると、
いい意味 20通り
悪い意味 24通り
となって、悪い意味が約55%ということになる。
一般的に、占いでは、悪い結果の方がいい結果より若干多く出る傾向があるみたいである。占いというのは古代から長く伝わってきたものであることを考えると、人生というのはいいことよりも悪いことの方が若干多いのかもしれない。
悪い結果が出るのであれば占いなんかしないほうがいいのではないだろうか。占いを結果だけで見ればそういう結論になってしまう。しかし、実はそうではない。
例えば、「あなたは交通事故に遭いやすいでしょう」という占いが出たとする。これで終わりなら、この占いの通り、交通事故に遭って、結局悪いだけになってしまう。そこで、「あなたは交通事故に遭いやすい。しかし、○○すれば、事故に遭わずにすむだろう」という占いであれば、この人は○○をすることによって、占いをしなければ避けられなかったかもしれない事故を回避することができる。実は、占いの真価はここにある。
ここで問題になってくるのが○○の内容である。これが、「教団にお布施を納める」とか「この壺を買えば」とかいうのであれば、これは間違いなく悪徳商法である。また、「外に出なければ」とか、「車を運転しなければ」とかいうのも、あまり意味がない。
私は、こういうアドバイスをするとき、なるだけ簡単にできて、しかも負担の少ない方法を選ぶことにしている。例えば「赤い服を着るといい」とか、「方角は西がいいですね」とかである。これらは、主に四柱推命から割り出すのであるが、こういうアドバイスは、むしろ心理的効果の方が大きい。簡単にできる対策をすることが、「私は(自分の手で)運命を変えようとしている」という自覚というか自信につながるのである。これは、思った以上に効果が大きく、こういうアドバイスで幸せをつかんだ人も珍しくはない。
占いの真価というものは、こういう、きっかけとか、自信とかを与えることなのではないだろうか。
・2000年5月24日(水)
もうすぐ5月も終わりである。最近は暑い日が続いていて、夏かと思うことさえある。
今日は、ちょっと変わった話をしてみる。
例えば、毒ヘビに噛まれたとする。このままでは1時間で死んでしまう。ふとみると、目の前に「解毒剤」と書かれた薬ビンが置いてある。しかし、この薬ビンは何だか怪しい。
こういうとき、この、自称「解毒剤」を飲むべきだろうか。
この、自称「解毒剤」は、実は毒薬かもしれない。飲んだらその場であの世行きかも知れない。あるいは、本当に解毒剤かもしれない。そこで、この自称「解毒剤」が、本物か毒薬か、それと、これを飲むか飲まないかで、どういう結果になるか表にしてみよう。
「解毒剤」を飲む | 「解毒剤」を飲まない | |
「解毒剤」は本物 | 毒が消えて、助かる。 | 1時間後に、ヘビの毒 で死亡 |
「解毒剤」は毒薬 | 飲んだ直後に死亡 | 1時間後に、ヘビの毒 で死亡 |
この表を見ると、助かるのは、「解毒剤」が本物で、しかもその「解毒剤」を飲む場合だけである。今、解毒剤が本物か毒薬か分からないのだが、飲まなければ結局ヘビの毒で死んでしまうわけだから、助かるためには「解毒剤」が本物であることを信じて、「解毒剤」を飲むしかない。
逆に考えると、「解毒剤」が毒薬だった場合は、どうあがいても助からないのだから、「解毒剤」が毒薬かも知れないと考えること自体が無意味なのである。
実は、こういう状況というのは、けっこう実社会でも起きることがある。こういうとき、どっちにしてもダメな場合をあれこれ悩んで、せっかくの成功のチャンスを逃してしまうことは少なくない。例えば、好きな人がいて、その人とおつきあいしたいと思ったとき、その人が自分のことを嫌いかも知れないとくよくよ考えて、告白しない(できない)などというのが代表的な例であろう。これなんかも、前の表の例と同じで、好きな人が自分のことを嫌いなら、どっちにしてもダメなのだから、その人が自分に好意を持っていることを信じて告白する以外に選択肢はないのである。
・・・と、偉そうな話をしてきたが、実は、この話は、「デュエリスト」というカードゲーム雑誌の受け売りである。この雑誌では、「マジック・ザ・ギャザリング」というゲームのことがいろいろ書いてあるのだが、その中の、戦法に関する記事の内容を応用したに過ぎない。このゲーム、戦法が実際の人生に活かされるのだから、かなりたいしたゲームなのではないだろうか。
・2000年5月26日(金)
家に帰ってパソコンを開けたときには、すでに昨日はあと10分しかなかった。ということで、昨日はお休みになってしまいました。それにしても、最近家に帰るのがほんとに12時近くになってしまっている。困ったものである。
不況が続いているから、仕事は少ないはずなのだが、私に限らず妙に仕事ばかりしている(させられている)人が多い。おそらく、人間を減らして残った人に過酷なノルマを課しているのだろう。
こう考えると、リストラで会社を辞めた人と同じぐらい、残った人も苦しいのかも知れない。
・2000年5月28日(日)
私は占いをするので、結構占いのサイトを覗くことがあるのだが、その中に、掲示板を通じて利用者が相互に占いをするというところがある。私もそこを覗いては、占いをしている。アマチュアの占い師である私にとっては、誰かを占うというのは、非常によい修行になる。さすがにアマチュアだから、占う数そのものはプロに比べると格段に少ない。私が、タロット占いを始めてから何人占ったかは数えていないが、おそらく1000回ぐらいは占いをしていると思う。それでも、プロの人は1日数十人は占うだろうから、10年やっている人だと、10万人以上を占っている計算になる。
数が多ければいいとは思わないが、やはり人を占うというのはいい経験になる。仮想体験ではあるが、自分では経験し得ないことを経験できるというのは大きい。特に、悩みの深い人を占うほど、自分がその人のことを真剣に考えなければならないので、その分自分の糧になる。
であるから、占いというのは、相手のためにもなる(ならない場合もあるかも)し、自分のためにもなるから、実は結構いいものなのかも知れない。
・2000年5月30日(火)
このコーナーも休みが多くなってきた。公私ともにいろいろ忙しくなってきていて、なかなかHP更新に回せる時間がなくなってきた。
さて、きょうは変なたとえ話から始めよう。
ある船が海賊に襲われ、乗客5人がとらわれてしまった。海賊は捕まえた5人をアジトにつれていった。そして、5人の乗客にこう言った。
「今から、おまえたちに100m競争をしてもらう。競争で1番だったものは逃がしてやろう。しかし1番でなかった者は、すぐにサメのえじきだ。」
恐怖におののく乗客たち。さて、こういう場合、この乗客たちはいったいどうすればいいのだろうか。
このままでは一番早く走れる者だけが助かり、あとの4人はどうあがいても助からない。何とか5人とも助かる方法はないだろうか。いっそ、みんなが一番だったら・・・・、そうだ、みんなで一緒に走ってみんなで一緒にゴールすれば・・・
海賊が約束を守るなら、この方法なら助かるかも知れない。なにせみんな1番なんだから。たとえそうならなくても、1番が決まらない以上、サメのえさになる人も決まらない。もしかしたらもう一度走ることになるかもしれない。そうしたらまた一緒にゴールすればいい。そうすれば、海賊が約束を守っている限りサメのえさにはならなくてすむ。
おっと、ここでタイムオーバーである。続きは次の日にしよう。
・2000年5月31日(水)
昨日は書いている途中でタイムオーバーになってしまった。ということで、昨日の続きで
ある。
この例のように、競争させて1番以外はひどい目に遭うという状況に立たされたとき、そのひどい目から逃れるためには、全員が競争せずに一緒にゴールするしかない。こういうのを、「横並び」とか、「護送船団方式」とかいう。これは、かつて大蔵省主導の元で銀行がとっていたやり方に等しい。
昨日の海賊の例で、一緒にゴールした5人を非難する人は、おそらくいないと思う。ところが、銀行の護送船団方式は、いろいろと非難の的になって、とうとう崩れ去ってしまった。
競争というのはあってもよいと思う。しかし、競争に敗れた者が被る不利益があまりに大きい場合は、そういうわけにはいかない。競争することによって各個の能力が向上するのというメリットはあるものの、競争に敗れた者に対する配慮がなければ、そういう社会はただの殺伐とした荒野でしかない。
日本では、敗者に対する配慮がない代わりに、いままでは敗者が出ないようにするという配慮がなされてきた。それが「横並び」であり「護送船団方式」であった。いま、こういう制度が崩れ去る以上、これに変わる敗者への配慮が必要になるのではないだろうか。
メールはこちらまで → tamatsuo@mx6.tiki.ne.jp