INDEX
・2000年2月30日(水)・・・じゃなかった、2000年3月1日(水)
日付がいきなり2000年問題のためおかしな表示になっている・・・わけじゃありません。日付自動表示なんて高度な技は私は使えません。さて、とうとう3月になってしまいました。今年も残すところわずか10ヶ月、時のたつのは早いものです。
さて、今のところ「玄関」だけでアップしている「おうち」占いですが、いま一生懸命JAVAスクリプトでプログラムを書いています。とりあえずプログラムの骨格は出来たので、あとは、その結果を書き出して、そんでもって結果の解説を書いていくという作業に移るわけです。ところが、この作業が思いの外難航している。というのも、JAVAスクリプトには、ページ上の任意の場所に書き出すのがうまくいかないのである。そのため、現在、研究中なのです。新しいウインドウを開こうとも思ったのだが、それはできるだけやりたくない。なぜなら、1つのページだけで完結できれば、見た人がそのページを自分のパソコンにセーブすれば、オフラインでいつでも使えるようになり便利だからである。
そういうわけで、現在悪戦苦闘しています。
・2000年3月2日(木)
おかげさまで、「おうち」占いにアクセスしてくれる人が、毎日何人かづついるようになってきました。ところが、このページのアクセスカウンターは、最初のページ(home)にアクセスしないと上がらないので、カウンターがなかなか上がらなくなっています。そこで、今日、「おうち」占いの結果の欄に「home」へのリンクを付け足しました。ということで、みなさん、homeにもよってください。
いま、一生懸命「おうち」占いを作っています。ところが、javaスクリプトというのは、ブラウザによって動いたり動かなかったりするので、苦労しています。今のところ、「インターネットエクスプローラー」のバージョン5では動くのですが、それ以外のブラウザでは、うまく動かないみたいです。もう少し勉強する必要がありそうです。
・2000年3月3日(金)
この「脳内探訪」、あまり寄っている人がいない中、もうすぐ2ヶ月になろうとしている。一つには、自分の思ったことの書き貯めみたいな部分もあるから、将来役に立つこともあるかも知れない。
私は、どちらかというと、というより、非常に飽きっぽい性格である。そのため、ある時期は何かに熱中しても、熱が冷めてしまうとぱったりとやめてしまう。そんなだから、何か1つのことを成就させるというのがなかなかできない。
ところが、そんな私でも、なんとかいろいろなものを完成させてきている。恐らく、私が作ったものの中で一番よい評価を受けたのは、7年ぐらい前に作ったパソコンゲームだろう。そのゲームは、実はその7年前に構想を打ち立てておきながら、実現しないままだったものを、RPG制作ツールが出されたのをきっかけに完成させたものである。そういうわけで、構想から完成まで実に7年がたっているのである。
私は、飽きっぽくて、すぐ「やーめた」となってしまうのだが、完全にはやめてしまわないで、とりあえず保留しておく。そうすると、将来気が向いたときに、それを取り出して、続きをやることができる場合もあるのである。そういう、アイデアというか、構想だけは、もうさんざん貯まっている。そういうものを、ヒマを見つけては少しずつ進行させているのだが、アイデアの貯まるスピードの方がはるかに早く、現在パニックに近い状態になっている。
・2000年3月5日(日)
制作日数、約2週間、ようやく「おうち」占いがグランドオープンできることとなった。Javaスクリプトと悪戦苦闘した結果、IEでしか動かないという結果になってしまったが、それでも、利用者の7、8割の人は使えるだろう。あとは、解説を充実させて、「おうち」占いを広めていかなければ。
ちなみに、3つの占いのうち、「玄関」以外は、1枚のページで、すべてが出来るようになっている。なぜ1枚にこだわったかというと、できるだけオフラインでもできるようにという配慮からである。しかも、javaスクリプトを別ファイルにしていないので、誰でもソースを見て、スクリプトが何をやっているのか分かるようになっている。ちなみに、このスクリプトは、ちょっと修正するだけで、四柱推命に早変わりするという特典もある。
というわけで、今日から、「おうち」占いが本格始動します。
・2000年3月6日(月)
きょうは、ちょっと変わった話をしてみたい。
電車運転のシミュレーションゲーム「電車でGO!」というのが、人気になってしばらくたつ。私も、このゲームにはハマったのだが、このゲームをやりだしてから、実際の鉄道にも関心を持つようになった。
最近では、電車に乗ると、鉄道の信号機とか、標識とかに関心を持って外を眺めるのだが、そんな中で、ちょっと気になることに気がついた。
鉄道の信号機には、普通の信号機のほかに、中継信号というのがある。この中継信号というのは、カーブなどで本体の信号機が見えにくいときに、本体の信号機の表示内容(「現示」という)を予告するもので、本体の信号機が青ならランプが縦に、赤なら横につく。
さて、この中継信号なのだが、本体の信号機と同じ内容を表示するので、ちょっと恐いことが起きてしまう。
鉄道の信号は、前に電車がいるときは、前の電車が安全なところまで遠ざかるまで赤信号を表示して、電車同士が追突しないようにしている。このため、青信号の場所を電車が通過したら、その信号はすぐ赤に変わる。だから、電車の窓から信号機が見えるとき、電車の先頭は信号機の場所を過ぎているから、信号は赤になっているはずである。
ところが、中継信号は、本体の信号と同じ内容を表示するため、電車が中継信号の場所を通過しても、その電車が本体の信号機の場所を通過するまでは青信号のままなのである。したがって、もし、電車が中継信号を過ぎて、本体の信号の手前で止まってしまったとき、中継信号は「進め」になっているのである。
略図で書くとこうなる。(正確には、中継信号は「青」ではないのだが、分かりやすくするためあえて「青」としている)
A [電車(停車)]
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
前 中 本
の 継 体
信 信 の
号 号 信
(赤) (青) 号
(青)
この図で、もしA地点に後続の電車が来たらどうなるか。その電車は、中継信号を見て、そのまま進めると思うだろう。だいたい中継信号があるということは、見通しが悪いと言うことなので、Aのところにきた電車の運転手が、前の電車に気づくのはかなり遅れるはずである。ということは、こういう状態になってしまったら衝突は避けられない(!)ということになる。
もっとも、こんな位置に電車が止まっている場合は、その前の信号機が赤になっているので、Aの位置に電車が来ることは普通はないのだが、もし、何らかの理由でAの位置に電車が来てしまったら、恐ろしいことになるのではないだろうか。
鉄道関係の方、もし読んでたら、考えてみて欲しいと思います。
・2000年3月7日(火)
そろそろ年度末が近づいてきている。年度末になると、スピード違反の取り締まりが多くなる。一説には反則金のノルマを達成するためだというが、最近はそういうのは少なくなっているような気がする。
ところで、自動車の速度って、いったいなんだろうか。速度違反でつかまったとき、たとえば制限40km/時のところを70km/時で走ったとか言われるが、厳密に言うと、これはナンセンスである。
物理学が好きな人ならすぐに分かるだろうが、速度というのはベクトルである。つまり、「どちらの方向にどれだけの速さで動いているか」が速度なのである。だから、「時速70km/時」というのは、動いている方向が抜けているので、「速さ」ではあっても「速度」ではないのである。
また、自動車の速さというのは、いったい自動車のどの部分の速さなのかも疑問である。自動車は点ではないから、例えばカーブを曲がるときなど、自動車の右端と左端では速さが違うはずである。さらに言えば、スピードメーターが60km/時のとき、自動車のタイヤの一番上の部分は、地面に対して120km/時のスピードのはずだし、逆に地面に接しているタイヤの部分はスピードが0(スリップしてなければ)のはずである。
なんだか屁理屈を言っているみたいだが、反則金ですむとは言え、人をつかまえるのだから、こういう疑問が残るのは問題なんじゃないだろうか。
さて、何で私がこういう屁理屈を述べているか、もう一つ理由がある。というのは、役所というのは言葉には厳格なくせして、こういう科学的な用語とか、定義にはあまりにも無頓着であるという点である。役所というのは、常識的には意味が同じであっても、正式でない用語を使っているものは認めない。「結婚届」を役所に持っていっても絶対に受け付けてくれない。意味は同じじゃないかと言っても、「婚姻届」でないといけない。
そういうふうでありながら、本来ベクトルであるべき「速度」という言葉を、「速度80km/時」などという風に平気で使う。用語にこだわるのなら、もう少しこういう科学的な事柄についても注意を払うべきではないだろうか。
まだ続きはあるのだが、時間がないので、今日はこのくらいにしたい。
・2000年3月8日(水)
さすがに忙しくなってきた。ここ数日9時より前に家に帰ってくることがなくなってしまった。とはいえ、今年は例年よりヒマだから、こういう風に毎日「脳内探訪」を書くことが出来る。忙しいときは帰宅が午前0時を回ったり、徹夜したりというのも珍しくなかったのだが。
私は、もとより夜起きているのが苦手で、徹夜なんかすると、次の日はほぼ1日中使い物にならない。だから、できるだけ夜は寝るようにしている。
世の中では、夜遅くまで仕事をしたり、徹夜して仕事をしたりするのを、頑張っていると思っている人が少なくない。ところが、私の場合は、徹夜すると次の日がまるまるパーになってしまうから、それを考えれば、私の場合夜はちゃんと寝て、次の日にまた頑張った方がはるかに効率がいいのである。
病気のときなんかもそうである。徹夜とは逆に、私は病気には強いので、少々の病気では仕事を休まないのだが、それでも見極めを誤ると、病気のなおりが遅くなってトータルでは効率が悪いということもあったりする。
こう考えると、仕事をすることも大切だが、それと同じくらい、場合によってはそれ以上に、「休む」ということが大切なのではないかと思うのである。日本人には、休むのは悪いことのように思っている人が多いが、きちんと休んで体調を整えることは仕事をすることと同等以上に大切なことなのではないだろうか。
・2000年3月9日(木)
今日は占いのサイトを見て回った。占いのサイトってほんとに数多くあるんですねぇ。そんなだから、私が作った「おうち」占いに似たものがあるのかなぁと思ったんですが、意外とそういうのはないみたいです。最も、四柱推命からとったいろいろな形の占いは、いくらでもあるのですが。
その中で、ちょっと気になるサイトがあったので、そこに寄ってみた。そこは四柱推命のサイトだったのだが、ものすごく断定的な口調で四柱推命を断じている。彼の言によると、私の「おうち」占いは「邪道」となるようだ。
占いにはいくつもの流派があり、それぞれが正当性を主張するのはかまわないと思う。しかしながら、他の占いを、すべて「邪道」と決めつけるのはどうかと思う。
日本の教育は、1つだけしか正解がないという教え方だと言われて久しい。例えば、これもよくある話なのだが、
[ ]肉[ ]食 [ ]の中に入るのは?
という問題で
[焼]肉[定]食 と答えて「間違い」と判定されるというのが日本の教育である。正解は「弱肉強食」らしいのだが、もし、「焼肉定食」と書いた生徒が、抗議しようものなら、
「こういう問題のときはそんな(「焼肉定食」のような)ふざけた答えが正解であるわけがないだろう。もっと状況を考えなさい」と言われるのがオチである。
世界にはいろいろな文化があり、価値観がある。日本の教育では、こういういろいろな価値観をもった人たちと理解し合うことは不可能なのではないかと思えてならない。
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・2000年3月12日(日)
金曜、土曜とこのページを休んでしまった。とはいっても、HP更新をさぼっていたわけではなくて、「おうち」占いの解説を執筆していたんで、こっちまで手が回らなかったわけです。仕事も忙しくなってきたので、ほんと1日が48時間ぐらい欲しいものだと思うこのごろです。ほんとに、今では1秒でも惜しい、ってな感じです。
ところで、1秒という時間、私たちはほんのちょっとの時間と思っているようですが、実は、この1秒という時間は、かなり長い時間なんです。
たとえば、野球をするとしましょう。草野球でも、ピッチャーの投げる球のスピードは、時速90kmはゆうに超えます。バッターは、この球を打つわけですが、バッターがこの球を打つためには、自分の前をボールが通過した瞬間にバットを振らなければならないわけです。仮に、バッターの前1mを通過する間にバットを振れば当たるとしたとき、その時間は、たったの0.04秒です。時速90kmぐらいのボールなら、ちょっとバッティングセンターで練習すれば、たいていバットに当てることは出来るようになりますので、私たちは0.04秒という短い時間に、ちゃんと行動できるわけなのです。こう考えると、我々人間が、生身で行動するのにすら、1秒という時間は(時間の最小単位としては)長すぎると言えるのではないでしょうか。
さて、それでは、こんなに長い1秒という時間、私たちはどのように認識しているのでしょうか。
簡単な実験をしてみましょう。
秒まで計れる時計を用意してください。時計が「00秒」を指したら、目をつぶって、30秒たったと思ったら目を開けて時計を見てください。さて、あなたが30秒だと思った時間は、いったい何秒だったでしょうか。
一度この実験をやってみたことがあるのですが、だいたい15〜20秒ぐらいで、30秒たったと思う人が多いみたいです。すなわち、私たちが感覚的に思っている1秒というのは、実際の1秒の半分ぐらいなのです。
ということで、この際、1秒の長さを、私たちが思っているのと同じ長さに変えてしまいましょう。そうすれば、1秒は今の半分になるから、1日が48時間になって、めでたしめでたし・・・・ん?それじゃ意味ないって?ま、確かに、1日の長さが本当に変わるわけではないんですけど、でも、こういうメリットもあるんです。
私たちはだいたい、スケジュールを5分単位ぐらいで決めてます。ところが、私たちがやることというのは、きっかり5分かかることばかりではありません。ところが、5分単位でスケジュールを決めていけば、5分より早くスケジュールが終わったとき、次のスケジュールまで時間があいてしまいますよね。具体的に例を示しましょう。
9:00〜 A社との打ち合わせ(所要時間 12分)
9:15〜 B社との打ち合わせ(所要時間 14分)
9:30〜 C社との打ち合わせ(所要時間 26分)
というスケジュールがあって、このあとにD社との打ち合わせを入れると、10:00からになります。もし、これを、1秒を半分にして、1日を48時間にしたらどうなるかというと、
−( )内は今の時間になおしたとき−
18:00(今の時間で9:00’00)〜 A社との打ち合わせ(所要時間 24分(12分))
18:25(今の時間で9:12’30)〜 B社との打ち合わせ(所要時間 28分(14分))
18:55(今の時間で9:27’30)〜 C社との打ち合わせ(所要時間 52分(26分))
というスケジュールになり、D社との打ち合わせは、19:50(今の時間で9:55)からできることになります。つまり、今の時間に直して、5分トクするわけです。
時間を変えるというのは大変かもしれませんが、考える価値はあるんじゃないでしょうか。
・2000年3月13日(月)
私は「甲」日生まれなので(「おうち」占いの「玄関」では、「盆栽」になります)、頭痛に悩まされることが多い。今日も帰宅前に、キリリっと頭痛に襲われた。
さて、頭痛には大きく分けて3種類ある。それは、
・内科的頭痛(かぜをひいたときとか、病気の時などに襲われる頭痛)
・外科的頭痛(鉄パイプや金属バットで殴られたときなどに襲われる頭痛)
・比喩的頭痛(身内がサラ金から借金したときなどに襲われる頭痛)
の3つである。(もちろん冗談です。真に受けないように)
さて、この頭痛、要するに頭が痛いわけだが、実は脳というのは痛みを感じないんだそうである。したがって、頭痛というのは脳が痛いのではなくて、脳の周辺の脳膜とか、そんなところが痛いのだそうである。
というわけで、今日は私だけ頭が痛いのはしゃくなので、ちょっと頭が痛くなるような問題を出してみようかと思う。
第1問
街の中の街路に植えてある木は街路樹といいますが、どう見ても町中とは思えない田舎の道路沿いに植えてある木は、いったい何と呼ぶのでしょうか。
第2問
飲み屋で知り合った女性に電話番号を教えてもらったので、その番号に電話したら、とんでもないところにかかってしまいました。その番号は、11−0569だったのですが、さて、いったいどこにかかったのでしょうか。(番号はフィクションです、実際にかけたりしないように)
第3問
地下鉄が絶対に脱線しないようにするためには、どうすればいいでしょうか。
(ヒント:私の記憶によると、札幌の地下鉄は絶対に脱線しないらしい)
答えは、アクセスカウンターが200を越えた頃に書きます。
home ページ頭
・2000年3月14日(火)
今日は、このコーナーのネタづくりにと思って、小六法を買ってきた。安いのにたくさんの法律が載っていていい本だと思っていたのだが、ほとんどの法律が抄録(一部分しか載っていない)であった。道路交通法ですら抄録である。やはり安いものはよくない。
ということで、今日は法律の話をしようと思ったのだが、ネタが貧弱だったので、ちょっとぶっ飛んだ話をしてみる。
日本では、法律に違反したときとか、法律を巡ってトラブルが起きたときには、裁判所がそれらについて決定を下す。そして、裁判所のうち、最高裁判所が、最終の決定を下すわけである。そのため、最高裁判所の決定はくつがえることがない。
それならば、もし、最高裁判所が、誰が見ても明らかに間違いという判決を下した場合、−例えば、立ち小便をしただけの人に死刑判決を下した場合−、いったいどうなるのだろうか。明らかに間違いでも、最高裁が出した判決である。これを法的に覆すことはできないし、最高裁の決定が間違いであることを判断する人も機関もない。となると、法律上は最高裁の決定をそのまま使うしかないような気がする。というわけで、さっきの例の人は、立ち小便をしただけなのに死刑になってしまう−となるのではないだろうか。
とはいえ、じゃあ、最高裁の決定を審査する機関を設けたらいいかというと、こんどは、その機関が間違ったら、そこを審査する機関が必要で、さらに、その機関が間違いを・・・・となって、いつまでも裁判が終わらなくなってしまう。というわけで、こればかりは最高裁判所の良識に期待するしかなさそうである。
ところで、実際に、立ち小便をして死刑になることがあり得るのだろうか。普通に考えたらそんなことあるわけないのだが、いろいろ考えたら、1つだけ可能性があった。
それは、エボラウイルスとかO−157などの危険なウイルスを持っている人が、上水道の取水口の上流で立ち小便をして、その小便の中に入っている菌が水道に混入し、それを飲んだ人が菌に感染して死亡した場合である。この場合、この人は、刑法146条の「水道毒物混入致死」に問われる可能性がある。「水道毒物混入致死」は、「死刑または無期もしくは5年以上の懲役」となっているから、この人は立ち小便で死刑になるかもしれないのである。
・2000年3月15日(水)
今日は夕方から雨が降り出した。天気予報によると、今夜から明日の朝にかけて大雨になるみたいである。今夜一晩で平均40ミリ、多いところでは100ミリの雨が降るということである。
ところで、100ミリの雨って、いったいどのくらいの量の雨なのだろうか。私が住んでいる宮崎県は面積が約7000平方キロである。宮崎県全体に100ミリの雨が降ったとき、県全体に降った雨の体積を計算すると、
7000*1000*1000*100/1000=7億立方メートル
となる。実にドラム缶35億本になるのである。これだけの量の雨が、半日で降るとすると、1秒当たり、約1万6000立方メートルとなる。ドラム缶に直すと8万本になる。
宮崎県には大きな川が5つあるので、この5本で全体の半分の水を流すとすると、河川1本当たり1600立方メートル/秒となる。
こう考えると、一口に100ミリの雨といっても、実は恐ろしい量の雨だということになる。大雨について、ニュースで警戒を呼びかけても、町中に住んでいる人はピンとこないかも知れないが、実は結構大変なことなのではないだろうか
(注)ここで書いた計算は、あくまでも単純化したもので、実際は降った雨がすぐに川に流れてくるわけではないから、実際に川を流れる水の量は、これより少なくなります。
・2000年3月16日(木)
最近交通事故のニュースが多い。それも、かなり大きな事故が多い。なんでだろうと思っていたのだが、今日その理由がわかった。
私は自動車で通勤しているのだが、今日は行きも帰りも、大型トラックが後ろから猛烈な勢いで私の車を抜いていった。行きでは、1方向に車線が2つあるにも関わらず、反対車線にはみ出して抜いていったトラックがいた。帰りでは、猛烈にパッシングとクラクションを鳴らして、どけとばかりに抜いていった。どちらのトラックもかなり悪質な交通違反である。
そういえば最近、こういう無謀運転をするトラックが多くなったような気がする。最近交通事故が多いのは、こういう無謀トラックが多くなったせいだろう。
交通事故、医療ミス、発作的な凶悪犯罪、などなど、最近いやなことが多くなってきている。世も末だと思っている人も多いだろうが、なぜこんな状態になったのか考えてみよう。
最近の事件事故には大きく分けると2通りになる。それは
1.イライラなどからくる凶暴性からくるもの。
2.単純な注意ミスからくるもの。
の2つである。それでは、それぞれについて考えてみよう。
まず、1.のイライラなどからくる凶暴性について考えてみよう。人間がなぜイライラするのか。簡単に言えば自分が思ったとおりにならないからなのだが、自分の思ったとおりにならないだけではイライラはしない。自分の思ったとおりにならなくても、それについて考える時間があれば、イライラにはなりにくい。逆に言えば、イライラするのは、自分の思ったとおりにならないというより、単に余裕がない(時間的にも、心理的にも)ということが多いのではないだろうか。
次に2.の単純な注意ミスについて考えてみよう。単純なミスをする理由の最たるものは、忙しくて確認をする余裕がない(やはり、時間的にも、心理的にも)という理由である。他にも、病的なものとか、いろいろあるだろうが、総体的に考えると、やはり余裕がないというのが一番の理由であろう。
ということは、1.にしても、2.にしても、「余裕がない」というのが一番の原因のようである。最近は不景気のため、企業は人員を削減している。ところが、削減しても仕事量は減らさないから、1人当たりの仕事量は異常に多くなってしまう。また、少ない仕事にありつくため、かなり厳しい競争を強いられ、ひいてはそれが大きな負担となってしまっているのではないだろうか。
余裕がない理由はもう一つある。それは、一つの失敗に対して過剰な対応を強いられるということである。営団地下鉄の脱線事故では、営団地下鉄はもとより、他のすべての鉄道会社も、脱線についてのの点検を強いられたはずだ。点検をするのはいいことだからいいじゃないかと思うかも知れないが、ここに大きな落とし穴がある。
営団地下鉄にせよ、他の鉄道会社にせよ、脱線の緊急点検のために、新たに人材を雇い入れるなどということはしていないはずである。ということは、脱線の緊急点検をしている間、点検している社員は、本来自分がやるべき仕事ができないわけである。つまり、脱線の点検のため、他の部分がおろそかになるのは避けられないのである。そうすると、そういうおろそかにした部分でまた何か問題が起きる。すると、その対応に追われ、今度は別の所がおろそかになる。そこで問題が起きて対応に迫られ、また別の所がおろそかになる・・・・といったふうに悪循環が起きる。
このように、今、どんなところで仕事をしている人も−仕事のない人も−余裕をなくしてしまっているのではないだろうか。そして、その余裕のなさが他人に対する非難を生み、それがさらに人から余裕を奪ってしまう。これも悪循環である。
これらの悪循環を断ち切るにはどうすればいいのか。最初の方は過剰な対応を強いないこと、後の方は他人を非難しないこと、というのは、すぐに分かるのではないだろうか。そして、前者についても、結局は誰かが不祥事を非難するから起きるわけであり、そう考えると、諸悪の根元は他人を非難することということになる。
いろいろ、不満や怒りもあることだろうが、こういう末期的な世相を少しでも良い方向に変えるため、私たち1人1人が人を非難するのをやめて、おおらかになろうではありませんか。ということで、私は、最初に書いたトラックの運転手を非難するのをやめます。
・2000年3月17日(金)
カウンターがめでたく200を越えました。ということで、3月13日のクイズの解答を、
第1問−街路に植えてある木が「街路樹」なんだから、道路に植えてある木は「道路樹」に決まってます。って、うそです。確か、正式な名称はありません。「修景木」なんて呼ぶこともあります。
第2問−電話番号の最初の3つの数字をよ〜く見てみましょう。そうです、この番号にかけると、110番につながってしまうんですねぇ〜
第3問−札幌の地下鉄はなぜ脱線しないか。それは、線路がないから。そうです、札幌の地下鉄はゴムタイヤ式なんだそうです。(私の記憶が正しければだが)
そうです。正解は、「最初から線路を走らなければよい」です。・・あっ、石を投げないでください・・・
ということで、しょうもないクイズにつきあってくれた方、まことにありがとうございます。
・2000年3月20日(月)
土曜日は予定通り休みの日だったが、昨日まで休んでしまった。長続きさせるためには、あまり無理をしてもいけないから、気楽にいこうと思う。いまのところ、このコーナーを楽しみにしている人もいないようだから。
今日は春分の日である。いつの間にかこんな時期になってしまったのかという感じである。昨日は雨だったが、今日は春らしい非常に気持ちの良い晴天になっている。こういうときは家になんかいないで春を満喫しに出かけるのがいいだろう。
私は仕事の関係上、3月は死ぬほど忙しいので、ここ数年春を満喫したなんて事はなかった。だいたいこの時期は休日出勤は当たり前なので、春のうららかな日差しを後目に終わらせなければならない仕事に向かうということが多かった。
今日は、幸い仕事に行かなくてすみそうなので(というより、行っても出来ることがない)、春の日差しに誘われてみようか、なんて思ったりする。もっとも、仕事以外でやることはいくらでもあるのだが・・・・
・2000年3月21日(火)
最近良くないことが続いている。もっとも、私は運の良くない方で、いままでも、こうだけはなって欲しくないという状態に、見事になってしまうというのは、枚挙にいとまがない。それだけならまだいい。私の場合、自分の立場というものを認めてもらったということがない。特に、最近は、私の言い分が認めてもらえることが皆無になってしまった。たいていの場合、私の言い分が認められなかったがために、(私が言ったとおりにすれば起きなかった)困難な状況に陥り、結局それを私が処理しなければならないという状況は珍しくない。
世の中から認められない、そんな思いの人は意外と多いのかも知れない。そういう人の一部が、時に犯罪に走ったりすると、その人と同じような人は、さらに世の中から認められなくなってしまう。
認められない理由はいくつかあるだろうが、一つには自分で認められないと思いこんでいる人が多いのではないだろうか。よく考えたら、見ず知らずの人が、「私はあなたを認めてますよ」なんて言うはずもなく、また、よく知っている人が、わざわざそう言うこともないであろう。だから、実際はそんなに気にすることではないのかも知れないが、それでも、人に認められてないと人間は不安になってしまう。
なぜ、人に認められないと不安になるのか。恐らく、人に認められることが、「自分が存在してもよい」ということのよりどころとなっているからではないだろうか。
人間は、生まれながらにして、この世に存在する権利があるはずである。しかし、自分にそういう権利があるということを教えられていない人が多いのではないだろうか。親のいうことをきかないといけない。学校の規則に従わないといけない。社会の趨勢に従わないといけない。そういうことが、自分が生存するための条件だと思いこんでいる人は決して少なくないのではないだろうか。
日本では特に、目上の人に従わなければならないということが教えられる。それはそれでよい。しかし、そうしないと存在が許されないというような考えを植えつけてはならない。そういう、強迫観念みたいなものを植え付けられてしまうと、人格がゆがんでしまう。
私は、子供に教えることはただ1つ、「あなたは、無条件に、この世の中に生きていていいのよ」ということだけでいいと思っている。ある人にこのことを話したら、「そんなの当たり前じゃない」というような顔をされた。昔はこれは当たり前だったようだ。しかし、私はこういうことを親からも学校でも教えてもらったことはないし、いつも、「親や先生の言うことを聞かないと殺される」という強迫観念があった。30歳を過ぎ、自分で稼ぐことができるようになった今でも、この強迫観念は消えていない。
今の子供たちにも、こういう強迫観念を持ってしまった人は多いのではないか。もしそうであっても、必死で食らいついていけば、私程度の人間にはなれる。しかし、それでは最低ランクでしかないし、なにより面白くない。やはり、「自分は無条件にこの世に生きていていいんだ」ということを、心の底から自覚することが、まっとうな人間として生きていくためには絶対に必要なのではないだろうか。
・2000年3月23日(木)
今日は昼前から雨が降り出した。うっかり傘を持ってくるのを忘れていたので、途中の100円ショップでビニール傘を買った。さすがに100円のかさはちゃちだったが、それでも雨をしのぐことは出来た。
傘をさしてあるくうち、リフォームの店が目に入った。「傘の修理200円より」と書いてあった看板を見て、「この100円の傘を200円で修理するってのはどうだろう」なんて思ってしまった。普通なら、これはお金の損である。しかし、中には、200円かけても修理する方がものを大切にするからいいんだ、という意見の人も結構いるのではないだろうか。
日本人は、わりとモノを大切にする国民だと私は思っている。今でこそ使い捨て社会になってしまったが、伝統的な風呂敷とか、買い物かごとかをみても、ものを大切に使うことの象徴みたいなものである。最近では、電気製品の修理専門店とかも登場し、モノを大切にするニッポンが復活しつつある。
さて、さっきの「100円の傘を200円で修理する」話にもどる。たしかに、100円の傘を修理することは、モノを大切にしている。しかし、それに200円かけているわけである。この200円というのは、とりもなおさず、修理屋の労賃である。ということは、「100円の傘を200円で修理する」ことは、傘というモノは大切にしているが、修理屋の労働を粗末に扱っているということになりはしないだろうか。
日本人がモノを大切にするということの裏返しとして、日本人は労働の価値を軽視しているということが言えるような気がする。例えば、友達に車で迎えにきてもらうとしたとき、その価値を私たちがお金に直すとしたら、恐らく車のガソリン代しか考えないのではないだろうか。
こういう、極論すれば「労働力はタダ」というような日本人の感覚は、きわめて危険なんじゃないかと思う。タダだと思うから、平気で残業代のカットをするし、カットされた方も、「しょうがないや」と思う。それが、長時間の過酷な労働を生み、ひいては過労死とかになってくるのではないだろうか。
最近、便利さにかまけた使い捨て社会に対する批判が高まっている。しかしながら、そこに、「手間」という概念がきちんと入っていない限り、その批判はかえって日本を悪い方向に導くような気がしてならない。
・2000年3月26日(日)
さすがに年度末である。かなり大変になってきた。それより何より、4月から配属先が変わることになった。その部署は、時間的にも精神的にもかなりハードなところである。その忙しさたるや、例の自殺した電通の社員に匹敵するといっても過言ではない。
私は、数年前、今の前の所属のとき、急な仕事があってその部署に張り付いて午前2時まで仕事をしたことがあるのだが、その時間になっても、もともとのそこの職員はまだ仕事をしていた。私はその日1日だけだったのに対し、そこの人は毎日その時間なのである。
例の自殺した電通の社員について、最高裁は、高裁の過失相殺を誤りと認定した。当然だとは思うが、ここでちょっと電通側の立場から考えてみるとどうなるか書いてみよう。
恐らく、あれだけの過酷な労働を強いられていたのは、自殺した職員1人だけではなく、他にいくらでもいるはずである。そして、他の多くの職員は、とりあえず自殺したり、過労死したりはしていないわけである。そうすると、管理者の立場からすれば「他の連中が何ともないのに、その社員だけ自殺したりするのは、その社員に問題があるからだ」と考えるのは無理もないことだろう。
実は、私も今回の異動に際し、同じようなことを言われている。「みんなやってきているのだから」と。そういわれると、私も簡単には反論できない。
ところが、この考えはやはり間違いである。なぜ間違いか、変わった例を挙げてみよう。
ここに、今にも壊れそうな橋がある。渡っているときに橋が壊れると、谷底に落ちて命は助からない。誰かがこの橋を渡ったとき、橋が壊れる確率は10分の1である。
ところが、今までにこの橋を9人が渡っていて、そのときは幸いにして橋は壊れなかった。
さて、あなたの番である。あなたは、今まで9人が橋を渡って大丈夫だったからといって、この橋を渡るだろうか。
・2000年3月27日(月)
ここのところかなり精神的に不安定になってしまっている。一つには転勤のこともあるのだが、このくらいで精神が参るようでは話にならない。普通、経験を重ねるたびに、いろいろな出来事に対して動じなくなるものだと思うのだが、私の場合は逆である。若い頃は何とも思わなかったことが、いまの私にはものすごく恐怖だったりする。そのため、昔は何とも思わなかったことでも、ものすごく精神が滅入るようになってしまった。
この理由は2つ有ると思っている。
1つは、いろいろなことが分かってきたため、昔は知らなかった恐怖を知ってしまったこと。つまり、それだけひどい目に遭ってきているということである。
もう1つは、世の中がせちがらくなってきているということ。10年前は許されたことが、今では許されなくなってしまったため、それだけ多くのことに気を遣わなければならなくなったからだろう。
それと、もう一つあった。昔は、頑張れば世の中は変わると思っていたが、今ではそうは思えなくなったこと。枯れてしまったのかもしれない。もっとも、ここにこうして誰とも知れぬ人に、いろいろと訴えているのは、まだ希望は捨てていないからなのかも知れない。
・2000年3月29日(水)
ここ数日、北では有珠山が噴火しそうになり、南ではここ宮崎で、口蹄疫という、家畜の伝染病が問題になっている。しかも、今日は私の仕事の関係者が3人ほど事故とか病気にあってしまうという、なんとも災難な日であった。
さて、できるだけ毎日書いていたこのコーナーも、更新するのがけっこうしんどくなってきた。仕事がしゃれにならない忙しさになりつつある(もっとも、今までがヒマだったのだが)のと、あと、書こうと思ったことを家に帰ってきたときには忘れてしまっているという致命的な状況が生じている。何とか脳をもう少し活性化させることはできないものだろうか。
・2000年3月30日(木)
今日新聞を読んでいたら、気になる記事があった。その記事は、住宅の検査をする機械が登場したという記事で、欠陥住宅などを発見するための精巧な機械ということであった。
ところが、この記事には、「これまでは、建築士が目視で済ませたり、、ビー玉を転がすなどいいかげんな検査で済ませていたが・・・」と書いてあった。この部分に、「ちょっと待て」という気がした。
私たちは、いつの間にか、機械でやる検査は精密で、人間がやったり、道具が簡単なものでやる検査はちゃちだ、と思うようになってしまった。だが、本当にそうだろうか。
以前にも書いたが、我々人間は、時速90kmで投げられた野球のボールを打つことができる。これが、目の前をボールが通過するわずか0.04秒の間にバットを振れるということは、3/12に説明したとおりである。
また、我々は、床の上に髪の毛が1本落ちていたとき、それを見つけることができる。髪の毛は太さが0.1ミリぐらいである。つまり、人間は0.1ミリ程度のものは見分けることができるのである。だいたい、人間の目に匹敵するカメラは、科学がこれだけ進歩した現代でも作られていないのである。
こう考えると、人間が目視で検査するというのが、意外に侮れないというのが分かるのではないだろうか。先ほどの記事によると、このマシンの誤差は0.5ミリ以下という。つまり、このマシンでは髪の毛ほどの違いはわからないのである。これなら、人間が目視で検査した方がはるかにマシである。
我々は、いつの間にか、機械が人間よりも優れていると思いこんでしまっている。しかし、人間の感覚は、まだかなり多くの部分で機械より優れているのである。
思いこみはもう1つある。それは、より複雑な機械や道具がよくて、単純なものがよくないということである。これについては、次の機会に書いてみたいと思う。
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