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・脳内探訪−まじめな話
ここでは、真面目なはなしをまじめ〜に取り上げます。
場合によっては過激になるかも知れませんが、そのへんはご了承下さい。

I N D E X
年月日 タイトル 概   要 おすすめ度
2000.2.7 遺族感情は「作られる」 加害者への憎しみは「作られる」ことがある ****
2000.3.16 事故やミスの起きるわけ 諸悪の根元は「非難」すること ****
2000.3.30 機械は人間より精巧か 人間の目は決してあなどれない ***
2000.5.22 経験は有害なこともある 経験は変化に対応するのを邪魔する ***
2000.7.8 衆院選の結果を計算してみよう 衆院選の得票と1票の価値など ***
2000.7.9 漁船と遊漁船 イメージに左右されない報道を ****
2000.8.10 理系学生の学力低下 理系は虐げられているから ***
2000.9.6 激増する少年犯罪 犯罪の抑止は原因を考えて ***
2000.12.15 日本の年功序列 日本の年功序列って何かに似てない? ****
2000.12.20 京福電鉄事故について 運転手の死亡はやりきれない ****

・その1−遺族感情は「作られる」−2000年2月7日

 今日(2/7)、15年前に少年が女子中学生を殺したとされた事件で、被害者の遺族が起こしていた民事訴訟の最高裁判決が出た。高裁の判決が取り消され、差し戻しになったようである。ニュースを聞いている限り、この「元」少年たちの無実が認定される可能性が高くなったみたいだ。
 もし無実なら、被害者の遺族としては、自分で起こした裁判が被告の無実を立証する場になるという皮肉な結果になるのだろうが、もし無実という判決になった場合、被害者側の人間は、この「元」少年たちを、それでも犯人だと思い続けるのかどうか、非常に気にかかる。もし、そうであったなら、お互いに不幸なんじゃないかと思えてならない。
 裁判はあくまでも法律的な決着である。もちろんそれはそれできわめて重要なのだが、それとは別に、それぞれの当事者間の心の問題というのが重要な位置を占めるのではないかと思う。もし、判決確定後も、被害者の遺族がこの「元」少年たちを犯人だと思い、憎み続けるなら、この事件は何にも解決していないのと同じなんじゃないかとすら思う。
 ところで、この、被害者の遺族は、なぜ、この「元」少年たちを憎んでいるのか考えてみよう。そんなこと考えるまでもないと思うかも知れないが、被害者の遺族たちは、この「元」少年たちの犯行現場を直接見たわけではないのだから、直接的に彼らを憎むいわれは、実はないのである。それじゃどうして憎んでいるのかというと、端的に言えば、捜査当局が「こいつらが犯人です」と提示したからに過ぎない。
 これだけではわかりにくいので、もう少し詳しく考えてみよう。
 被害者の遺族は、愛する人を奪われたわけだから、ものすごい憎しみの感情を持つ。しかし、犯人がだれか分からないうちは、その憎しみを持っていく場所がない。
 これはとてもつらいことである。
 こういうひどいことでなくても、多くの人は、なにかいやなことがあって、それを誰かのせいにできないときは、ものすごくイライラするのではないかと思う。
 こういうとき、私たちは、その怒りや憎しみの矛先をどこかに持っていきたいと思うものである。そうして、何か関連がある人、時には関連をこじつけて、そこに矛先を持っていくことってあるのではないだろうか。そして、その矛先が、怒りや憎しみの原因と関係ないとき、我々はそれを「八つ当たり」と呼ぶ。
 さて、被害者の遺族の話に戻る。前述のとおり、犯人が分かるまで、被害者の遺族はやり場のない怒りに相当苦しむことと思う。そんなとき、捜査当局が、容疑者を特定すれば、そのやり場のない怒りが、その容疑者に向かうことは自然の成り行きである。そのとき、その容疑者が、本当に犯人かどうかなんて、考える余裕などないはずである。
 かくして、捜査当局が容疑者を挙げた時点で、その容疑者は、自分が真犯人かどうかには全く関係なく、被害者側の憎しみを一手に受けることとなる。場合によっては、後で真犯人があがったとしても、最初に容疑者とされた人に対する被害者側の憎しみは容易には解けないのではないだろうか。
 ここまで考えてみれば、「遺族感情」は、「作られる」ことがあるのだ、ということが分かるのではないかと思う。これは、容疑者側にとっても、被害者側にとっても、きわめて不幸なことである。また、刑事裁判の判決文の中で、「遺族感情に考慮して」という言葉は非常によく使われるが、「遺族感情」が「作られる」可能性があることを考えると、この言葉を簡単に使うのは危険なのではないだろうか。

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・その2−2000年3月16日(木)−事故やミスの起きるわけ
 最近交通事故のニュースが多い。それも、かなり大きな事故が多い。なんでだろうと思っていたのだが、今日その理由がわかった。
 私は自動車で通勤しているのだが、今日は行きも帰りも、大型トラックが後ろから猛烈な勢いで私の車を抜いていった。行きでは、1方向に車線が2つあるにも関わらず、反対車線にはみ出して抜いていったトラックがいた。帰りでは、猛烈にパッシングとクラクションを鳴らして、どけとばかりに抜いていった。どちらのトラックもかなり悪質な交通違反である。
 そういえば最近、こういう無謀運転をするトラックが多くなったような気がする。最近交通事故が多いのは、こういう無謀トラックが多くなったせいだろう。
 交通事故、医療ミス、発作的な凶悪犯罪、などなど、最近いやなことが多くなってきている。世も末だと思っている人も多いだろうが、なぜこんな状態になったのか考えてみよう。
 最近の事件事故には大きく分けると2通りになる。それは
1.イライラなどからくる凶暴性からくるもの。
2.単純な注意ミスからくるもの。
の2つである。それでは、それぞれについて考えてみよう。
まず、1.のイライラなどからくる凶暴性について考えてみよう。人間がなぜイライラするのか。簡単に言えば自分が思ったとおりにならないからなのだが、自分の思ったとおりにならないだけではイライラはしない。自分の思ったとおりにならなくても、それについて考える時間があれば、イライラにはなりにくい。逆に言えば、イライラするのは、自分の思ったとおりにならないというより、単に余裕がない(時間的にも、心理的にも)ということが多いのではないだろうか。
 次に2.の単純な注意ミスについて考えてみよう。単純なミスをする理由の最たるものは、忙しくて確認をする余裕がない(やはり、時間的にも、心理的にも)という理由である。他にも、病的なものとか、いろいろあるだろうが、総体的に考えると、やはり余裕がないというのが一番の理由であろう。
 ということは、1.にしても、2.にしても、「余裕がない」というのが一番の原因のようである。最近は不景気のため、企業は人員を削減している。ところが、削減しても仕事量は減らさないから、1人当たりの仕事量は異常に多くなってしまう。また、少ない仕事にありつくため、かなり厳しい競争を強いられ、ひいてはそれが大きな負担となってしまっているのではないだろうか。
 余裕がない理由はもう一つある。それは、一つの失敗に対して過剰な対応を強いられるということである。営団地下鉄の脱線事故では、営団地下鉄はもとより、他のすべての鉄道会社も、脱線についてのの点検を強いられたはずだ。点検をするのはいいことだからいいじゃないかと思うかも知れないが、ここに大きな落とし穴がある。
 営団地下鉄にせよ、他の鉄道会社にせよ、脱線の緊急点検のために、新たに人材を雇い入れるなどということはしていないはずである。ということは、脱線の緊急点検をしている間、点検している社員は、本来自分がやるべき仕事ができないわけである。つまり、脱線の点検のため、他の部分がおろそかになるのは避けられないのである。そうすると、そういうおろそかにした部分でまた何か問題が起きる。すると、その対応に追われ、今度は別の所がおろそかになる。そこで問題が起きて対応に迫られ、また別の所がおろそかになる・・・・といったふうに悪循環が起きる。
 このように、今、どんなところで仕事をしている人も−仕事のない人も−余裕をなくしてしまっているのではないだろうか。そして、その余裕のなさが他人に対する非難を生み、それがさらに人から余裕を奪ってしまう。これも悪循環である。
 これらの悪循環を断ち切るにはどうすればいいのか。最初の方は過剰な対応を強いないこと、後の方は他人を非難しないこと、というのは、すぐに分かるのではないだろうか。そして、前者についても、結局は誰かが不祥事を非難するから起きるわけであり、そう考えると諸悪の根元は他人を非難することということになる。
 いろいろ、不満や怒りもあることだろうが、こういう末期的な世相を少しでも良い方向に変えるため、私たち1人1人が人を非難するのをやめて、おおらかになろうではありませんか。ということで、私は、最初に書いたトラックの運転手を非難するのをやめます。

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・その3−機械は人間より精巧か−2000年3月30日

 今日(3/30)新聞を読んでいたら、気になる記事があった。その記事は、住宅の検査をする機械が登場したという記事で、欠陥住宅などを発見するための精巧な機械ということであった。
 ところが、この記事には、「これまでは、建築士が目視で済ませたり、、ビー玉を転がすなどいいかげんな検査で済ませていたが・・・」と書いてあった。この部分に、「ちょっと待て」という気がした。
 私たちは、いつの間にか、機械でやる検査は精密で、人間がやったり、道具が簡単なものでやる検査はちゃちだ、と思うようになってしまった。だが、本当にそうだろうか。
 以前にも書いたが、我々人間は、時速90kmで投げられた野球のボールを打つことができる。これが、目の前をボールが通過するわずか0.04秒の間にバットを振れるということは、3/12に説明したとおりである。
 また、我々は、床の上に髪の毛が1本落ちていたとき、それを見つけることができる。髪の毛は太さが0.1ミリぐらいである。つまり、人間は0.1ミリ程度のものは見分けることができるのである。
 こう考えると、人間が目視で検査するというのが、意外に侮れないというのが分かるのではないだろうか。先ほどの記事によると、このマシンの誤差は0.5ミリ以下という。つまり、このマシンでは髪の毛ほどの違いはわからないのである。これなら、人間が目視で検査した方がはるかにマシである。
 我々は、いつの間にか、機械が人間よりも優れていると思いこんでしまっている。しかし、人間の感覚は、まだかなり多くの部分で機械より優れているのである。
 思いこみはもう1つある。それは、より複雑な機械や道具がよくて、単純なものがよくないということである。これについては、次の機会に書いてみたいと思う。

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・その4−経験は有害なこともある−2000年5月22日

 非常に恥ずかしい限りなのだが、私はこの年まで海外に行ったことがない。友人からしきりに行ってみるよう進められているのだが、仕事の都合上そう簡単にはいかない。学生のころに、借金してでも行くべきだったと思うこのごろである。
 さて、海外に行ったことがない私が外国の話をすると、「行ったこともないくせに」と必ず言われる。海外に行ったこともない人間が、海外のことが分かるわけがないというのである。確かにそれはそのとおりであろう。だから、私は海外の話をする場合は、自分で見ていないということを前提にして、間違いがあるかもしれないということを考えながら慎重に話すことにしている。
 それでは、逆に、海外に行ったことがある人はどうかというと、自分が行ったことがあるという強みで、海外のことを雄弁に話す。そして、時には、外国というものはこうだと、断定的にすらなる場合がある。
 ところで、ちょっと考えてみてほしい。普通は海外に行ったことがあるとはいっても、多くて100回ぐらいだろうし、行った場所もせいぜい数10箇所だろう。ということは、海外に行ったとは言っても、そのうちの1%にも満たない所しか見ていないのである。それなのに、海外はこうである、と断定的に言えるものだろうか。
 経験というものは重要なものである。多くの経験を積むことによって人間は成長し、大きくなっていく。だが、経験といえども万能ではない。一人の人間が経験できることは、世の中に起きていることのほんの1部に過ぎない。だから、経験を過信してしまうと、とんでもないことになってしまうのだ。
 ベテランとよばれる、その道の経験を積んできた人には、自分の経験に絶対の自信を持っている人が少なくない。それはそれでいいのであるが、自分の経験から得た結論だけが正しいと信じてしまい、それ以外の結論は間違いと決めつけてしまうことが珍しくない。こうなると、経験がむしろ有害だと言わざるを得ない。
 私は、経験は時として有害な作用をすると思っている。例えば、私は、DOS版のロータスに慣れきっていたため、WINDOWS版のロータスの操作に慣れるのにかなり苦労した。そして、エクセルが主流になりつつある今、どうしてもエクセルになじめないでいる。これなど、過去の経験が有害な作用をしている格好の例である。
 経験というのは大切なものだが、あくまでも「自分の経験は世の中のほんの一部でしかない」ということを、常に自覚しておかなければならないのではないだろうか。

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・その5−衆院選の結果を計算してみよう−2000年7月8日頃

 このコーナーを立ち上げてしばらくは、新しいネタがでなかったのだが、先日格好の材料が出てきた。衆議院選挙である。
 選挙の結果と解説はマスコミに譲るとして、ここでは、ちょっと変わった視点から計算をしてみる。
 今度の選挙で、有権者数が1億人を越え、100,492,322人になったそうである。
 ここで、この有権者のうち、どれだけの票が、国会に反映されているか考えてみた。
 自分が投票した人が国会に行った場合、つまり当選した場合に、票が生きたと考えると、小選挙区で当選した人の得票数を全部合計した数だけの票が、国会に反映された票ということになる。
 これを合計したところ、29,344,624票という結果になった。実に全有権者数の29%程度でしかないのである。
 中には棄権した人もいるだろうから、投票した人との割合でも計算してみる。投票総数が62,764,239票なので、投票総数の46.75%という計算結果になる。投票した人で計算しても過半数に満たないのである。
 さて、次に、「1票の格差」について考えてみる。小選挙区の場合、選挙区ごとの1票の価値が2倍を越えないように選挙区を設定しているみたいだが、当選した人がどれくらいの得票を得たかで比べてみるとどうなるだろうか。
 小選挙区で当選した人の得票数は最も多い人が170,176票、最も少ない人が40,765票であった。実に4.2倍の差が開いている。
 不思議なのは、少ない得票数で当選している人は、意外と都市部に多いということである。東京、神奈川、大阪、兵庫の大都市圏で、当選者の得票数の平均を計算すると、91,527票となり、全国平均の97,815票を下回る。つまり、大方の予想に反して、当選した人に入れた「1票」の価値は、都市部の方が地方より高いのである。

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・その6−漁船と遊漁船−2000年7月9日(日)

 先週の日曜日に、父の漁船がぶつけられて大破したので、代わりの船を探すため、今日鹿児島まで行って来た。あの広い海で、長さ10メートルほどの船同士がぶつかるというのは、不思議としか言いようがない。
 この事故は、地元の新聞にも書かれていたのだが、その内容が、事実といくぶん違っている。
その新聞には、こう書いてあった。
−「遊漁船が漁船に衝突」
2日午前7時頃、 (中略)、 **漁協所属の漁船、**丸に、釣り客3人が乗った**市の遊漁船**丸が衝突した。(後略)

実は、衝突した2せきの船は、両方とも漁協に所属している漁船なのだが、この記事ではぶつけた方は「遊漁船」、ぶつけられた方は「漁船」と書いてある。たしかに、衝突当時、ぶつけた方は釣り客を乗せていたのだが、私の父も釣り客を乗せることはあるので、2せきの船は全く同格なのである。
 「漁船」は、漁で生活をしているまじめな船、「遊漁船」は、釣りをして楽しむ遊びの船というイメージがあり、どちらかというと「漁船」が善玉、「遊漁船」が悪玉である。この記事は、まさに、「悪玉」の遊漁船が「善玉」の漁船にぶつけたという書き方をしている。記事の見出しをみれば、記事を書いた人が「悪玉」が「善玉」にぶつけたという書き方をしているというのがよくわかる。これは、新聞記者が意図的にそうしたのか、記者というものは無意識にそういう表現をするものなのか分からないが、この記事が、「遊漁船」が「悪」で「漁船」が善というイメージをさらに定着させたことは間違いない。そして、その定着したイメージがまた別の場面でも事実を歪曲させてしまう。こういうことによって、偏ったイメージが社会に定着してしまうと、「悪玉」にされた方の人権が蹂躙されるだけでなく、社会全体が間違った物差しで動いてしまい、それによって生じる損失は計り知れない。
 報道機関はイメージに左右されず、物事を正確に伝えて欲しいと思うのだが、それは無理なことなのだろうか。

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その7-理系学生の学力低下−2000年8月10日(木)
  さて、今回は、全国の大学教授たちを嘆かせているこの話題をとりあげてみよう。
 大学生の学力低下については、かなり前から問題になっていた。だいぶ前には、文系の学生が中学生程度の数学ができないというのが問題となり、今回は理系の大学生の話である。今朝のニュースによると、国立大学の学生の約1割が、中学1年生程度の数学の問題ができなかったということであった。実は、この報道には疑問があって、テストで誤答したのをできなかったというのであれば、別に大したことはない。というのは、簡単な足し算が100問あったとして、数学の得意な人が100問パーフェクトに解けるかというと、そうはいかなくて、たいていはいくつか間違えるのが普通だからである。
 それはさておき、確かに最近は、学生だけでなく、社会全般に理科系の能力が落ちてきているという気がする。例えば、日本テレビで「伊藤家の食卓」という、いろいろな裏ワザを紹介する番組がある。この前、この番組で、「ヘッドホンがマイクの変わりになる」というのがあって、あ然とした。というのは、少なくとも20年前は、ヘッドホンやスピーカーとマイクが同じ原理のもので、ヘッドホンやスピーカーがマイクの変わりになるというのは誰でも知っている当たり前のことだったからである。
 そういえば、昔は、テレビを買うと、分厚い説明書と一緒に、テレビの回路図がついていたものである。それで、電気の知識がいくらかある人は、これを見ながらテレビの修理とかをしていたものである。
 最近では電気機器が複雑化してきて、個人では対応できないという事情はあるものの、それを差し引いても、現代ではこういう理科系の能力というのが、全体的に落ちているというのは間違いないだろう。
 それでは、なぜそうなったのか。答えは簡単で、理科系に魅力がなくなったからである。日本では、理科系の知識を持った科学者や技術者の社会的地位が異常に低い。例えば、公務員の場合、事務官と技官では、比べものにならないほど技官の地位は低く、技官は小間使い程度の扱いしか受けていない。民間ではそこまでひどくはないのだろうが、舌先三寸で月何百万も稼ぐ連中がいる現状では、何年も努力して技術を身につけて、たかだか月20〜30万という技術者に魅力がないのは当然である。
 そういえば、最近は腕のいい職人さんがいなくなってきたそうである。最近は家を建てた後でのトラブルが多いようだが、これなどは優秀な大工さんが少なくなったのが原因のようである。
 今日のニュースでも技術立国ニッポンの危機と言っていたが、それなら、まず技術者の社会的地位を上げるのが先決である。もともと日本というのは、技術とか技能とかに価値を認めないという風土の国なので、かなり大胆に技術者の優遇政策をとらなければ、技術者の地位は上がらないだろう。

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・その8−2000年9月6日(水)−激増する少年犯罪
 最近、少年による凶悪犯罪が増加しているというニュースが毎日のように流されている。それでもって、少年法を改正して刑事処分年齢を14歳に引き下げるとか、そういうことが画策されているのだが、ほんとうにこれでいいのかどうか、ちょっと検証してみよう。
 さて、犯罪はどうして起きるのだろうか。例えば、殺人なんかの場合、殺したいという衝動と、殺してはいけないという抑止力が心の中に働いて、殺したい衝動が抑止力より強い場合に行動に移るわけである。そうすると、殺人などの凶悪事件が増えた理由には、
1.犯罪に走ろうとする衝動が強くなった
2.犯罪を思いとどまろうという抑止力が弱くなった
という2つが考えられる。
 次に、実際に犯罪行動に移った場合を考えてみる。この場合、行動に移ることが、即凶悪事件につながるかというと、必ずしもそうではない。例えば、誰かを殺そうと包丁を持って家を飛び出した少年を第三者がみつけて押しとどめれば、犯罪は防止できるし、極端な例では、包丁で刺された被害者の体が丈夫で、刺されても死ななければ殺人事件にはならない。つまり、次のようなことも要因として考えられるのである。
3.犯罪に走ろうとしている少年を押しとどめることが社会にできなくなってきた。
4.同じことが起きても、以前より被害が大きくなってきた。
 したがって、この問題を考える場合には、これらの4つの要因を頭に入れた上で、どれを改善するのが一番効果的かを判断していかないといけないのである。今行われている少年法の改正などは、刑罰を厳しくすることで、2.の要素を改善する効果がある。ところが、他の1.3.4.については、改善策が今のところないような状況である。
 犯罪が凶悪化している昨今では、世論が感情的になって、犯罪者への制裁強化という方向に動きがちである。しかし、それが本当に犯罪を減らすことになるのか、冷静に考えてみることも必要なのではないだろうか。

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・2000年12月15日(金)−日本の年功序列
 また更新まで一ヶ月以上たってしまった。いろいろ考えることはあるのだが、なかなか文章にするのは難しいもので、結構書けなかったネタが残っている。
 さて、今日は、また変な話をしよう。
 最近になってようやく崩れ始めたが、日本の社会はこれまでずっと年功序列を続けてきた。年功序列というのは、言うまでもないだろうが、勤続年数に応じて役職が上に上がっていくというシステムで、最初は平社員から入って、年を追うごとに、係長→課長→部長というふうに上の役職に上がっていき、それに伴い給料も上がっていく。このシステムだと、若いうちはどんなに優秀で仕事ができても平社員だし、給料も安い。反面、勤続年数を重ねれば、あまり仕事ができなくても、そこそこの役職にはつけるし、それなりの給料ももらえる。つまり、若いうちは働いた量より給料が少ないわけで、逆に年を取ると、(若い人に比べると)働いた量に対する給料が多くなる。
 具体的に言えば、平社員の働いた成果の何割かは課長の功績になり、課長の功績の何割かは部長の功績になり・・・・というふうに、役職の下の社員の功績の何割かが、その上司の功績になるわけで、それが給料にも反映されているわけである。
 例えば、平社員が給料10万円に相当する功績をあげたとすると、その上司の課長は、その何割か、例えば2割なら2万円分の功績があるとカウントされる。そうすると、この10万円分の給料は、平社員8万円、課長2万円というふうに配分されると考えられる。つまり、平社員は自分の功績が上司にピンハネされているわけである。
 それでも、ふつうの平社員は上司のために一生懸命働く。それはなぜかというと、一生懸命働けば、いずれは自分が上の役職になってピンハネする側に回れるからである。つまり、部長が退職すると課長が部長になり、平社員が課長になる。そして、新部長は新課長からピンハネし、新課長は新しく入ってくる平社員からピンハネする。そして新部長が退職すれば新課長が部長になり・・・・というふうに続くわけである。
 もっと分かりやすくたとえて言えば、課長は部長に100万円渡し、平社員は課長に100万円渡す。その後、部長が抜け、課長が部長になって新しい課長から100万円もらえ、平社員は課長になって新しい平社員から100万円もらえる。それから新部長が抜け・新課長が新部長になって・・・・
−−−これって、何かに似ていると思いませんか?−−−
 そうです。これって、ネズミ講によ〜く似ているんですよね。最近はインターネットを使った新手のネズミ講なんかが登場していますけど、そういうのにそっくりだと思いませんか?
 ネズミ講がなぜいけないかというと、人間は無限にいないから、どこかで行き詰まるからなんです。それで、行き詰まったところの末端の人は損するだけになってしまうわけです。
 年功序列の制度も、ピンハネされる新入社員が新しく入ってくるから今まで成り立ってきたんです。ところが、最近は少子化に加え、若者が年功序列式の会社を嫌うようになったんで、年功序列がうまく回らなくなってきたんです。これは、ちょうどネズミ講が破綻して被害者が多数出るのと、おんなじ現象です。
 ということは、この年功序列の制度が崩れた直前に会社に入った人は、ネズミ講の末端でピンハネされて終わりという悲惨な状況になってしまうわけです。最近、私自身も含めて、仕事で悲惨な目にあっている人が多いような気がしますが、原因はこれだったんですね。なにかいい対策はないものでしょうか? 

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・2000年12月20日(水)−京福電鉄事故について
 
先日の日曜日、福井県で電車の正面衝突事故があり、運転手1名が死亡するという惨事が発生した。事故の詳細はニュースなどで何度も報道されているが、ここでは、この事故で感じたことを述べてみたい。
 事故の原因は、どうやらブレーキの故障のようで、死亡した運転手は衝突のかなり前から、ブレーキに異常があることに気づいていたみたいである。おそらく、この運転手は、何とかして電車を止めようと四苦八苦したあげく、最後まで止めきれずに衝突、死亡ということになってしまったのだろう。
 ところで、衝突した電車の映像をテレビや新聞で見た感じでは、電車のスピードはさほど出ていなかったのではないかと思われる。このため、衝突のときに、列車の後ろの方、少なくとも運転席以外の所にいれば、最悪でも死亡は避けられたような気がする。
 ということは、あくまでも結果論だが、死亡した運転手が、運転席から離れて、後方の客席に避難していれば、運転手の命は助かったのではないだろうか。
 ここで、もし、この運転手が今述べたように、衝突前に客席の方に避難したとしよう。すると、世間はこの運転手を、無責任だと一斉に非難するのは間違いない。したがって、世間から非難されないようにするためには、この運転手は、最後まで運転席に残って、列車を止めるよう努力するしかないわけである。
 ところが、列車というのは、基本的に、加速するときに使うマスコンという装置と、ブレーキしか運転装置がない。だから、ブレーキが効かなくなった状態では、運転手が運転席にしがみついていてもどうしようもないのである。そういう、どうしようもない状態でありながら、ただ単に世間の非難を恐れ、運転席にしがみついて、あげくに命を落としてしまうということであったとしたら、あまりにもやりきれないという気がしてならない。
 仕事をする以上、どんな仕事にも職責というものがあり、それを果たそうと努力するのは当然である。しかし、仕事というのは、基本的に自分や家族が生きるためにするものである。それでありながら、職責を果たすために自分の命まで犠牲にするのは、やりすぎではないだろうか。まして、第三者が、職責を果たすために命を投げ出して当然という言い方をするのは、いくら何でもひどすぎるのではないだろうか。

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