INDEX
・2000年4月1日(土)
今日から新年度が始まる。ということで、この「脳内探訪」のコーナーも、レイアウトを変えてみた。バックナンバーを月ごとに整理して、インデックスをつけ、分かりやすくしてみた。
ということで、今日は定休日なのだが、新しいレイアウトのテストも兼ねて、このコーナーを書いてみることにした。
さて、私は4月から転勤になった。転勤といっても、県内の転勤なので引っ越しをしなくてよいので楽である。といっても楽なのは引っ越しだけで(というよりない)仕事そのものは超ハードである。日本で誰も守っていない法律のワースト2は、道路交通法と労働基準法であるというのは、調べたわけではないが(こんなこと調べられるわけがない)100%間違いないであろう。
さて、その2傑のかたわれ、道路交通法なのだが、これの違反のベスト(ワーストか)3は、スピード違反、駐車違反、過積載であろう(これも調べたわけではないのだが)。だれもがやっていることだから、やるほうも罪の意識はあまりないのだろうが、このうち、過積載だけはマジでやめて欲しいと思っている。
私は仕事で橋のことに携わることがあるのだが、トラックなどの大型車が数多く通る場所では、橋の損傷が並ではない。橋だけではない、舗装も思いっきりいたんでしまう。
道路の壊れ方は、その上を通る車の輪荷重(タイヤにかかる重さ)の4乗に比例すると言われている。つまり、重さが10倍になると、壊れ方は10000倍になるのである。だから、総重量20tの大型トラック1台が通ると、総重量1tの小型自動車が16万台通ったのとおなじだけ道路が壊れるのである。
もし、総重量20tで、積載量10tのトラックが、過積載をして12tの荷物を積んで走ったとするとどうなるか、。総重量は22tとなり、道路への負担が通常の約1.5倍にまではねあがる。つまり、小型車8万台分余計に道路が壊れるのである。
そういうわけなので、マジで過積載はやめて欲しい。
・2000年4月2日(日)
昨日はいつの間にか過積載の話になってしまったが、今日もちょっと道路の話をしてみよう。
交差点にさしかかった直前で信号が黄色になったとき、みなさんはいったいどうするでしょうか。交差点の前で止まれるならブレーキを踏んで止まり、安全に止まれそうにないときは黄色信号のうちに交差点を通り抜ける、というのが模範解答ではないでしょうか。とはいうものの、恐らく、普通の人は、黄色のうちに通り抜けられそうなら通り抜けるが、それが無理ならしょうがなく止まる、というのが正直な所じゃないかと思います。
ところで、交差点の前何mのところで黄色信号になったら止まれるのでしょうか。警察庁が監修している交通安全の教則本によると、時速60kmで走っているとき、止まるまでには約44mかかるのだそうです。ただし、これは危険を感じて急ブレーキを踏んだときの話ですので、実際に安全に止まれる距離は、これより長いでしょう。とりあえず、ここでは、止まるまでの距離を44mとしておきます。
次に、黄信号が何秒ぐらいついているのかを考えてみます。これは信号機によって多少は違うのでしょうが、多くの交差点では2秒というのが相場のようです。
さて、この2つの数値から、考えてみましょう。
時速60kmというのは、秒速に直すと約17mになります。つまり、黄色の時間の2秒間に、34mだけ走ることになります。ここで賢明なかたならお気づきでしょうが、止まれる限界の44m手前で信号が黄色に変わって、赤になるまでに交差点を突っ切ろうとしても、信号が赤になったときには(時速60kmをオーバーしない限り)まだ交差点の手前10mのところにしかきていないということになるわけです。
今度は、逆に、信号が黄色に変わったときに交差点にどこまで近づいていたら、赤になるまでに交差点を抜けることができるか考えてみましょう。2車線道路との交差点だと、交差点の幅はだいたい20mぐらいですから、34−20=14で、交差点の手前14mよりも近づいていた場合は、めでたく黄色のうちに交差点を抜けることが出来るわけです。
さて、今の2つをまとめてみると、交差点の手前14mから44mの間で信号が黄色に変わった場合、ドライバーは止まることも、黄色のうちに交差点を抜けることも出来ないということになってしまうのです。したがって、そういう目に遭って、さらに交差点に警察が張っていた場合、このドライバーはなすすべもなく捕まってしまう(!)のです。
時速60kmで走っている場合、交差点の手前14〜44mの間で信号が黄色になる確率は、約45分の1ですから、比較的長距離を運転しているドライバーの方は、1日に1回ぐらいは、こういうどうしようもない状態になってしまうわけです。
さて、それでは、こんな状態なのに、なぜ、交差点で頻繁に事故が起きないのでしょうか。それは、信号が赤になっても、すぐには交差道路の信号が青にならないからなのです。一方の信号が赤になって、他方の信号が青になるまでの時間(全赤という)は、約3秒です。すると、時速60kmなら、この間に51m走ることができます。そうすると、交差点の手前44mで黄色になっても、黄色の2秒、全赤の時間3秒、合計5秒の間に、85m進むことが出来ますので、交差道路の信号が青になるまでには、交差点を抜けることが出来るわけです。
ということは、信号が赤になって、交差道路の信号が青になるまでの間、交差点の中に車が走っている状態というのは、はじめから想定されているということなのです。ですから、もし、この全赤のときに交差点内にいたからといって信号無視で捕まえるような警察官がいたとしたら、その警察官は間違いです。恐らく、法律的にも「不可抗力」ということで無罪になるはずです。
・2000年4月3日(月)
とうとう新しい職場での仕事が始まった。予想通りかなり恐ろしいところである。
さて、今日は、ちょっと変な(いつも変な話ばっかりだが)話をしてみよう。
日本は技術も発達している先進国である(と思っている人が多い)。当然測量技術もハイレベルである。だから、日本では国土の測量は寸分の狂いもなくなされていると思っている人が多いのではないかと思う。
ところが、ところがですねぇ、実はそうでもないんです。例えば、私たちが土地を買ったり売ったりするとき、土地の面積をきちんと測量します。そしてその測量した結果を法務局に登記します。この法務局にある土地の図面は、土地の所有権の根拠となるかなり重要な図面なのです。ですから、多くの人は、この図面(測量法17条地図という)は、国土の隅々まで、寸分の狂いもなく測量されていると思うのではないかと思います。
と・こ・ろ・が・、この17条地図、田舎にいくと目も当てられないほどに不正確、というかいい加減なのです。例えば、見ただけで数万〜数十万平方メートルはあるかという土地の面積が60平方メートルぐらいだったり、土地の境界が明らかにおかしかったり、ひどい場合は実際にはない土地が図面にあったりするのです。
こういう話をすると、うわー、こんなにいい加減なの?!・・と、思う方も多いでしょう。それでは、なぜこんなにいい加減なのでしょうか。
土地の境界の測量をするのには、おおまかに言って1平方メートル当たり200円程度のお金がかかります。1平方キロ当たりだと、この100万倍なので、2億円になります。これに、日本の面積、38万平方キロをかけると、76兆円になります。つまり、日本の国土の隅々まで正確に測量しようと思ったら、国の年間予算1年分近くのお金がかかるわけです。
そう考えれば、国土の隅々まで正確に測量するなんて、どだい無理な話だというのがわかるのではないかと思います。
私たちは、日本の技術や科学は進んでいるから、こういういい加減なものをみると、「何でこんなずさんな・・」って思ってしまいがちです。ところが、最先端の技術そのものがあるのと、最先端の技術が普及するのとでは、ものすごく大きな開きがあるのです。都会の人には信じられないかも知れませんが、日本には、まだ上水道(下水道じゃないですよ)のない家が結構あるんです。(井戸があるからいらないって人も多いのだが)道路にしても、狭くて、一度入ると、帰りには1kmぐらいバックして帰らなければならないなんて場所も結構あるんです。
都会の著名人の方は、「日本に公共事業はもういらない」なんて言っていますが、私みたいに田舎に住んでいると、「まだやらなきゃならないことはいっぱいあるなぁ」という感じを持たざるを得ないのです。
・2000年4月4日(火) 天気(雨)
今日は「おうち」占いの解説を少し書き足して、「庭」をつくってみた。「おうち」占いもだいぶできあがってきた。
この「おうち」占い、あくまでも四柱推命の入門版で、ベースは四柱推命というより、四柱推命そのものなのだが、難解さをできるだけなくして、おおざっぱでいいから直感的に分かるようにと思って作っている。
ところで、「おおざっぱ」というと、あまりいいイメージはない。いい加減でてきとーなもの、っていう感じを受ける。私は、かなり「おおざっぱ」な人間で、このコーナーでいろいろ計算をしている数値は、ほとんどが概数(だいたいの値)である。
しかし、ここで書いていることをどれか1つでも見てもらうとわかるのだが、ここで出している数字が少し変わったからといって、結論はほとんど(というより全く)変わらないはずである。むしろ、そういうチマチマした部分を大胆にカットして、大勢で物事を判断する。そういうことによって、このコーナーの画期的(ほんとかよ)な結論は導き出されているのである。
このコーナーのよしあしはさておき、細かなことにこだわって大勢を見ないというのは、あまり良いこととは思えない。むしろ、最初はおおざっぱに全体を把握して、それから必要に応じて細部を詰めていけばいいんじゃないかと思う。
そういうわけで、全国のおおざっぱな皆さん、日本全国に「おおざっぱ」を広めましょう。
・2000年4月6日(木)
昨日は私の人生の中で一番酒を飲んだ日である。やっとのことで電車に乗って、家の最寄り駅のホームでぶっ倒れていた。生きているのが不思議なくらいである。
さて、今日はまた変な(いつも変なのだが)話をしてみたい。
何年か前に、「ゾウが踏んでもこわれない」という筆入れがはやったことがあった。そして、この時期、この筆入れを、壊れるまで足で踏みつけて「壊れるじゃないか」といって、持ち主をいじめるということが、多数発生した。そりゃ、ゾウが踏んでも壊れないからって、壊れるまで踏めばこわれるに決まっている。それでもって、「ゾウが踏んでも壊れない」のはウソだというのは、おかしな話である。
これは、小学生の話なのだが、実はこれと同じようなことが、サラリーマンの世界で頻繁に起こっているのである。
自動車のセールスマンを例にとってみよう。このセールスマンは、例えば、会社から月間50台車を売れというノルマを課せられる。有能なセールスマンは、この過酷なノルマを頑張ってこなす。そして、ノルマをこなすと、次の月にはノルマが月間60台になる。これも頑張ってこなすと、ノルマが70台になり、80台になり・・・・と、際限なくノルマが増えていく。
そして、ついにノルマが達成できなくなると、ダメセールスマンのレッテルが貼られてしまうのだ。
つまり、ノルマをだんだん増やしていって、ノルマが達成できなくなるまでノルマを増やしていく。こういうことが、いろいろな場所で(役所でさえ)行われているのである。まさに、「壊れるまで踏み続ける」のとよく似ている。
この方法を使うと、どんな有能な人間でも無能にしてしまうことが出来る。ノルマを課されてそれが達成できないというのは、たとえ、達成できないことによる罰則がなくても、精神的に大きなダメージを受ける。また、ノルマが達成できないことを楯に、会社は社員に賃金カットや労働条件の改悪、リストラなどを強要できるのである。
ノルマを増やし続ける会社にいると、いつかはこういう事態に陥ってしまう。もし、会社がそういうことをやり始めたら、早いうちにノルマをあきらめてしまうほうが、傷口が大きくならないですむのではないだろうか。
・2000年4月9日(日)
早いもので、もう4月も中旬になろうとしている。このコーナーも読み返してみるといろいろなことを書いている。論調はいつも大体同じで、思いっきりおおざっぱな数字を出して、これまた思いっきりおおざっぱに計算して、それでもって大胆な結論を出す。私は、理系の人間で、周囲からは緻密だと思われているみたいなのだが、自分では私よりおおざっぱな人間はいないと思っている。
私はおおざっぱなので、間違いが非常に多い。恐らく、普通の人の10〜100倍は間違っているんじゃないかと思う。
これだけ間違いが多いと、間違いとうまくつきあっていかないとまともに生きていくことができない。このため、私は、「間違えない」ことより、「間違っても何とかなる」ことを考えるようになった。
例えば、手紙を書くとする。手紙というのはどうしても手書きで書かなければならないことがあるのだが、1文字間違えると、全部やり直さなければならない。このため、まず鉛筆で下書きしてから、間違いがないことを確かめてボールペンで清書するということをやる。あるいは、便せん1枚に書く文字数を少なくして、枚数を多くする。こうすれば、間違えたときに、その1枚だけ書き直せばいいから、被害が少なくなる。
こういう工夫をしているからか、これだけ間違いが多い人間でありながら、とりあえずなんとか生きていくことが出来ている。
「間違わない」というのは、人間にはもともと無理なことである。「間違いを少なくする」ことはできても、「間違いを0にする」ことはできない。だから、むしろ間違えたときに的確に対応し、被害を最小限に食い止めることが本当は必要なんじゃないかと思う。
医療ミスなんかが発生すると、「こんな致命的な事態になるまでなぜ間違いが分からなかったのか」という非難が必ず出てくる。はっきり言って、それを今の日本人に求めるのは無茶である。我々は「間違えないこと」はみっちり教育されてきたが、「間違ったときに的確な対応をする」ことは全く教えられていないのだから。まして、今の日本では「間違った」時点で社会から抹殺されてしまう。だから、「間違った」経験をした人というのは、社会の表舞台にはいないのである(正確には、「間違った」ことが発覚した人というべきだろうが)。「間違った」経験をしたことがない者が、間違いに正しく対処できるわけがないではないか。そう考えれば、今の日本の表社会で、間違いに正しく対処できる人間がいるわけがないのである。
これは、裏返せば、致命的な間違いを経験した人間というのは、二度と得難いほど貴重な人材なのだということでもある。だから、間違えた人に罰を与えるのは仕方ないとしても、そういう人間を社会から引きずりおろしてしまうことは、決して得策ではないのである。
・2000年4月10日(月)
私のパソコンは、買ってからもう3年以上がたつ。パソコンの進化は激しいもので、3年前のパソコンだと今ではほとんど使い物にならない。
そういえば、ちょうど家庭向きのパソコンが出始めたのがちょうど20年ぐらい前である。そのころは、メモリが32キロバイト搭載されているマシンは夢のような高級マシンである。今やメモリが32メガバイトでは話にならないという時代になってしまった。20年の間になんと1000倍にもなっているのである。
CPUにしても、今や1ギガヘルツのクロック周波数になりつつある。昔の8ビットパソコンのクロックが4メガヘルツぐらいだったから、これだけみても250倍のスピードになっている。
しかし、そのわりには、今のパソコンがそれに見合うだけ速くなったとは思えない。例えば、パソコンの起動なんかは、むしろ今のパソコンの方が時間がかかる。確かに、グラフィックとか、マルチメディアとか、そういうものが昔のパソコンには出来なかったことを考えれば、単純に比べるべきではないのだが、それでも、使用目的によっては、昔のパソコンの方がまだ使える、っていうシチュエーションがままある。
昔は、パソコンの能力が低かったから、パソコンにやらせることを厳選していた。ソフトの開発にしても、徹底的に無駄を省き、メモリやCPUの負担をいかに少なくするかを、プログラマーは必死で追求していた。
ところが、パソコンの性能が飛躍的に向上した今では、プログラムの技術そのものがパソコンの進歩に追いつかなくなってしまっている。そのため、今のプログラムは、パソコンの力に頼った、力任せのものになってしまっている。そこには、メモリを節約しようとか、CPUの負担を軽減させようなどという思想はでてこない。なもんだから、128メガバイトのメモリを積んだマシンが、メモリ不足でハングアップするなんていう、昔のパソコンユーザーには信じられないようなことが当たり前のように起きる。
メモリがいくら多いからと言って、限りある資源であることには変わりない。そろそろ、このへんで、プログラマーたちも、パソコン内の地球環境を考えたプログラミングに転換して行くべきではないのだろうか。
・2000年4月11日(火)
今日の話は、かなりエグいかもしれない。
今、ここに腹を空かせたライオンが2頭いるとする。2頭がえものを求めてさまよっていると、もう腹ペコも限界というときに、ついに獲物となる1頭のシマウマを発見した。
さて、このようなシチュエーションのときに、このライオンはどのように行動するのがトクでしょうか。考えてみましょう。
−−−考え中−−−−
−−−考え中−−−−
−−−そこまで〜−−−
さて、正解VTRをみてみましょう。
「2頭のライオンのうち、1頭が猛然とシマウマめがけて突進しました。おおっ、これはすごい、この速さ、前人未踏、いや、前ライオン未踏の速さかもしれません。そして、もう1頭のライオンは、おや?なんと、もう1頭のライオンは突進していったライオンをじいっと見ているだけで、動こうとしません。これは、あきらめたのかぁ!?。さて、突進していったライオンの方を見ます。シマウマも必死で逃げています。しかしライオンも必死だっ。
お、おおっと!、ついに、ライオンがシマウマに追いついたぁ!。ライオン、必死でシマウマにかみつく!。シマウマも必死で抵抗する。ライオン、かなり苦しそうだぁっ!。しかし必死で首筋にかみつく。シマウマもがんばるが、・・・もはやこれまでかぁ?!シマウマは力つきた模様。やりました。ライオンはついに獲物をしとめましたぁ。ライオンも疲れ果てている!しかしこれでやっと待望のエサにありつけます。ライオンはゆっくりと、たった今しとめたシマウマを食べようと・・え?!ちょっと、ちょっとまってください。後ろからもう1頭のライオンが出てきたっ。そして、な、なぁんと!!、今、必死でしとめたシマウマを、もう1頭のライオンが横取りしようとしています。しとめた方のライオンは、シマウマとのバトルでもう力が残っていなぁい!!なすすべもなく、必死でしとめたライオンはエサをとられてしまいました。これはずるい!人道に、いや、ライオン道にもとる卑劣な行い。しかし、えものをしとめたライオンには、もう抵抗する力は残っていなぁい!!。なんということだ!!こんなことがあっていいのか!!・・・」
ということで、正解は「もう1頭のライオンが獲物をしとめるのを待って、横取りする」でした。何とひどいことだ、と思う人も多いでしょうが、これと同じようなことは、我々人間の世界でもひんぱんに起きているのです。
世の中には、大きく分けて、モノを生産する人と、それを横取りする人の2種類がいる。そして、いつの世の中も、モノを横取りする人がトクをし、モノを生産する人は虐げられている。歴史的に見ても、洋の東西を問わず、モノを生産する農民は最低の生活を強いられてきた。今はそんなことはないと思う人もいるだろうが、例えば、ある会社に入って、本社勤務と工場勤務のどちらがいいかと聞かれたら、ほとんどの人が本社勤務がいいと答えるし、社会的にも工場で実際にモノを作る人より、本社でマネジメントをする人が地位が高いと思うのが普通である。
だから、やはり今でも、モノを作る人間は、そうでない人間より地位が下なのである。
純粋に考えれば、人類の幸せのためには、その糧となるものを生産することが一番大切なはずである。国王がいなくても世界は滅びないが、農民がいなければ世界は滅びるのだから。しかし、そういう、人類にとって一番大切な役目を担っている人たちが、いつの世でも社会の最下層にいるのである。
2000年4月13日(木)
仕事が本格的に厳しくなってきた。このコーナーも、2日に1回ぐらいしか書けなくなってしまいそうだ。
さすがに、こう余裕がないと、書く内容も暗い方に偏ってしまう。それでは面白くないので、ここに書き込むのも、心に余裕があるときだけにした方がいいのかも知れない。
とはいえ、そうしてしまうと、なんかなし崩しになってしまいそうなので、「原則として毎日書く」という方針で行くのがいいだろう。
さて、この「原則」ということば、日本では、「一応、きまりとしてはそうだが、例外はいくらでもあるよ」という意味の言葉である。「原則」というのは中国から来た言葉らしいが、本家の中国では、「絶対に守らなければならない基本的なきまり」という意味なのだそうである。
私たちは、「きまりはまもらなければならない」と、教えられてきている。しかし、その一方で、「まじめにきまりを守るのはばかげている」ということも、いろいろなところから学習している。日本の法律とか規則というのは、くそまじめに守っていたら生きていくのが不可能である(と断言していいだろう)。ところが、その法律に抜け穴とか、裏ワザとかがあって、それを駆使した人がトクをするというしくみになっている。
この話は、話し出すと思いっきり長くなりそうだ、ここまで書いた時点で4月13日があと9分しかないから、この話はまた続きを後で書くことにしよう。
・2000年4月14日(金)
昨日は途中まで書いたところで時間切れとなってしまった。今日は、その続きをいってみたい。
日本では、表向きは法律とか規則とかを守らなければいけないという顔がある一方、まじめに規則を守るのはばかげているという一般常識(?)があるようだ。実際、まともに守っている人はだれもいないというような、形だけの規則はいくらでもある。
この、規則に関して表裏があるということは、いろいろなところで矛盾を引き起こしている。
例えば、高速バスは、運行計画を運輸省に提出して認可を得るのだが、このとき、高速道路を制限速度の時速100km以下で走るという計画でないと、(当たり前だが)認可が下りない。ところが、実際問題として、高速道路を時速100kmで走っていたんでは、(遅すぎて)誰もバスを使わないだろう。となると、バス会社としては、まともに制限速度を守った運行計画を出していたのでは商売にならないから、認可申請に何らかの細工をしなければならなくなるはずである。これなんかは、バス会社が悪いというより、高速道路の速度制限が、実態に合わない不合理なものであることが問題というべきだろう。
このように、規則に裏表があるということは、いろいろなところで矛盾を引き起こし、そのため、いろいろな帳簿とか、書類とかが、細工されたもの(あからさまに言えば「ウソばっかり」)になってしまうのである。
この問題は、書き出したらきりがなさそうである。あまりこれについて書き続けても芸がないので、この問題はこのへんにしておきたい。
・2000年4月16日(日)
私のパソコンは買ってからもう3年以上になる。そのため、最近のアプリケーションを使うと、すぐにメモリがパンクしてしまう。そろそろ新しいのを買おうかと思っていたのだが、とりあえずメモリを64メガバイトに増設してみたところ、思った以上に快適に動くようになった。これで、イライラのタネが1つへる事になった。
とは言ったものの、イライラすることが最近とみに多くなってきたような気がする。自分に余裕がなくなったからかも知れないのだが、なんか社会全体に余裕がなくて、みんながイライラしているような気がしてならない。先日乗ったタクシーの運転手なんかも、ひどい時は20時間以上ぶっつづけで働くのだという。さすがに20時間ぶっ続けで運転し続けたタクシーには乗りたくない。
仕事をすることは大切かも知れない。しかし、それ以上にきちんと休むことが大切なんじゃないかと私は思う。きちんと休んで、体と心をしっかりした状態に保つのは、働くこと以上に大切なのである。
・2000年4月17日(月)
メモリを増設したら、ハードディスクの接触が悪くなったみたいで、パソコンが起動しないことがある。古いテレビみたいに、パソコンの本体をたたかないと起動しなくなってしまっている。困ったものだ。接触が悪いというのも、肉眼ではわからない微妙なものだったりするので、同じ事をしていても、起動したり起動しなかったりする。
パソコンというのは不思議なもので、最先端の機器であるにもかかわらず、その動きはとても緻密なものとは思えない事が多い。例えば、ファイルの読み込みエラーなんかが出たとき、何回か繰り返すとたまたまうまく読めたりする。本来、ファイルが壊れていれば何回やっても読めないはずだし、壊れてなければ1回で読めるはずである。パソコンが緻密な動きをするのであれば、こういうあいまいなことは起きない。こうやって考えていけば、パソコンという機械は、じつはかなりおおざっぱな動きをしているのではないかと思えるのである。
パソコンも、最初のうちは、いつも同じ結果がでる緻密なものだったのかもしれない。ところが、パソコンが高度化し、人間の脳では全体像を完全に理解できなくなるまで肥大すると、そんな巨大なものを完璧に緻密に作ることができなくなってしまう。そうすると、どんなに頑張って作ってもどこかにミスが発生してしまう。
緻密であることはいいようだが、緻密であると、1つのミスがすべてをダメにしてしまう。だから、巨大なシステムをスミからスミまで緻密に作ろうとすると、そのシステムは永遠に動かないだろう。だから、システムが巨大になると、どうしてもあいまいな部分、おおざっぱな部分というのが必要になってくるのである。
パソコンは、システムがおおざっぱだからこそ使い物になる。我々の社会のシステムも、年々巨大化、複雑かしている。こういう巨大化したシステムをうまく運営するために、パソコンのおおざっぱさというのを見習う必要があるのではないだろうか。
・2000年4月18日(火)
知らない人も多いと思うが、今週の土曜〜日曜(4/22〜23)に、宮崎市で、「太平洋・島サミット」という国際会議が開催される。この「島サミット」は、太平洋地域の各国首脳が集まる、結構大きな会議なのだが、その割には知名度が今ひとつである。
そのためか、島サミットの準備がされているという様子、−例えば、警察官が増えるとか−は、いまのところ見られない。恐らく、見えないところで準備はしているのだろう。
災害でも何でもそうだが、知名度が低い災害や、事件事故、イベントは、実際に必要とされる支援が十分にされなかったり、実際に必要な手かけられなかったりする。また、そのために被害が回復されなかったり、イベントでトラブルが起きたりしても、知名度が低いため、それが問題になりにくい。
この、問題になりにくいというのは、特にイベントの場合、次に同じようなことをやるときの教訓にならないということにつながる。だから、知名度の低い中途半端なイベントばかりやっていると、イベントで起きた問題点がそのままにされてしまい、いつまでたっても改善されないということが起きてしまう。
ここ10年ぐらい、宮崎ではさまざまなイベント、最近のグリーン博をはじめとし、ねんりんピック、世界ベテランズ陸上など、マイナーだが結構大きい大会が多く開催されている。ところが、そのイベントを細かくみると、同じようなトラブルが毎回発生している。つまり、イベントで起きた問題点が教訓になっていないのである。
今回、太平洋・島サミットに続いて、7月にはサミット外相会議が宮崎市で開催される。 今回の島サミットの知名度が低いことが、7月の外相会議に悪影響を及ばさなければいいのだが・・・
・2000年4月19日(水)
最近は帰りが遅いので、このコーナーは朝の短い時間に書くことにしている。仕事が忙しければやめればいいようなものだが、やりだした以上(縮小することはあっても)途中でやめるわけにはいかない。というより、今後どのように展開していくかまだ決めていないので、今後の方針を決めることが先決である。
このHPも、最初は占い、ゲームの2本立てで、この「の〜たん」はおまけだったのだが、今ではほとんど占いのページになってしまっている。とりあえず、新開発「おうち」占いはなんとかできあがったので、次なる占いを作っていくべきなんだろう。
掲示板を立ち上げたが、いまのところ記入がない。そこで、あの欄に「おうち」占いによるその月の占いなどを書いていこうかと思っている。
・2000年4月20日(木)
もうだいぶ昔のことになるが、ファミコンでRPG(ロール・プレイング・ゲーム)をやっていた時代(10年以上前になるんだなぁ)には、ゲームのすすみ具合を記録するために「ふっかつの呪文」などと呼ばれたパスワードを入力していた時代があった。そのころのファミコンは、データを記録することができなかったからで、ファミコンのカセットにバッテリーバックアップが登場する前のRPG−例えば、ドラゴンクエスト2とか−は、ゲームを終了する前に、このパスワードを記録しておいて、次にゲームをはじめるときに、このパスワードを入力すると、その前に進んだところからゲームが始まるという方式であった。
ところで、このパスワードの入力画面であるが、こんな感じであった。
な た さ か あ
に ち し き い
ぬ つ す く う
ね て せ け え
の と そ こ お
おわり
このように、文字が並んでいる中から、パスワードの文字を十字キーで選んで、Aボタンで決定、という感じで入力していたのである。
このとき、カーソルが、「な」にあるとき、「←」で「あ」にワープするものと、ワープしないものがあって、戻らない方では非常に不便な思いをした経験がある。
ここで、カーソルが左端から右端、上端から下端へワープする場合と、そうでない場合で、パスワードの入力にどのくらい時間がかかるかを考えてみる。
カーソルを1マス(例えば「あ」から「か」へ)動かす時間を0.3秒、ボタンを押す時間を0.2秒と仮定し、入力画面を、上のサンプルのような5*5のマス目とする。そして、パスワードを20文字としたとき、
端でワープする場合 −−−平均19秒
端でワープしない場合−−−平均24秒
の時間がかかる。つまり、端でワープするかしないかで、1回のパスワード入力に5秒の差が出てくるのである。
ゲームを解き終わったり、やり直したりすることを考えると、1本のカセットにつき、100回ぐらいはパスワードの入力をするので、カセット1本当たりになおすと、500秒になる。
さらに、カセットが10万本売れたとすると、売れたカセット全体での差は5000万秒となって、これは1年以上の時間になるのである。
端でワープしないゲームがあるところをみると、この「端でワープする」というプログラム処理は結構面倒なんだと思う。しかし、10万本売れるようなソフトであれば、この部分のプログラムに1年かかったとしても、ゲームをする人の時間がトータルで1年以上浮くので、この「ワープ」のプログラムをした方がよいということになるのである。
・・・と、今まではゲームの話だったのだが、実社会においても、もう少し効率的なシステムだといいのにと思うことは多い。こういうとき、そういうシステムを作る社会の上層部の人間が、ちょっと面倒だからといって、細かい配慮をしないままのシステムにしておいたのでは、末端での作業をトータルすると、その時間や費用のロスは計り知れない。
実際、私が仕事をする上でも、この制度をちょっとだけ変えてくれれば、ものすごく仕事量が減って効率的なんだがということはいくらでもある。何度か提言をしたことはあるのだが、それらはいまのところことごとく潰されるか、無視されているのが現状である。
今、不況で仕事が少ないはずなのに、どこで働いている人も、異常にハードな労働を強いられているみたいである。社会全体のシステムが変になってるのではないのだろうか。こういう状態を改善するためには、いったいどうしたらいいのだろうか。
・2000年4月23日(日)
太平洋・島サミットも、とりあえず大きな混乱もなく終わったみたいである。逆に私の方は何か疲れ果てている。おかげで、このコーナーにかくアイデアもだんだんつまらなくなっているような気がする。もっとも、今まで書いていることは、結構前に考えていた事柄もあるので、いってみれば私の人生のなかでいろいろ考えたストックみたいなものを吐き出している面もある。
そういうストックの中で、まだ出していないものが1つある。
インターネット上には、「家電占い」とか、「回転寿司占い」など、変、というか面白い占いが結構出回っている。このサイトの「おうち」占いも、それらの中に参入しているわけだが、実は、20年近くの歴史をもつ変な占いを、私は独自に持っているのである。
最近は封印してしまっているのであるが、そろそろこの封印を解くべき時が来たのかもしれない。幸い、来週1週間が終われば連休になるので、この間に、この由緒ある変な占いをアップするかも知れない。
・2000年4月24日(月)
このHPを立ち上げて、いつの間にか3ヶ月が経過している。このコーナーも、よくもあきずに続いたものだと思う。
このコーナーは、一応日記みたいな形式にしているのであるが、日記とは決定的な違いがある。というのは、誰にでも分かるように書かなければならないということである。
これは、一見簡単なことのようで、実は難しい。というのは、我々は、知らず知らずのうちに、自分にしか通用しない言葉(ここでは「自分用語」という)を、いくつか使っているものである。
例えば私の場合は(これは極端かも知れないが)こんな感じになる。
「今からマロールで行けばギリギリで、遅刻するかも知れない。遅刻しても、理由がポカリスエットだから言い訳できないしなぁ、しょうがない、高速代もったいないけど、ロクトフェイトで行くか」
(註:「マロール」−一般道路を経由して目的地に行くこと
「ポカリスエット」−理由がないこと
「ロクトフェイト」−高速や有料道路有料道路を経由して目的地に行くこと)
というように、わけの分からない文章になってしまう。こんなのは極端としても、自分の知らないうちに、自分にしか通用しない言葉を使っている事というのはあるのではないだろうか。
・2000年4月25日(火)
最近ぐっすり眠れない事が多い。風水などによると、西向きに寝るとよく眠れるとなっているのであるが、西向きに寝てもいっこうに効果がない。ちなみに、東向きに寝ると、いろいろな情報が得られて、出会いとかのチャンスが多くなるのだそうだ。理想的には、部屋の真ん中で寝るのがいいらしい。また、不吉とされている北枕は、実は健康にいいのだそうだ。
眠れないために夜寝る前にお酒を飲むというのは一つの手なのだが、これは、寝入りはいいが、目が覚めるのがかえって早くなるのだそうだ。だから、使い方を考える必要があるのかもしれない。
睡眠薬を使うというのは最後の手であろう。ただし、バルビツール酸系の睡眠薬には手を出さない方がいいだろう。というのは、この薬は、飲みあわせの悪い薬が多く、危険性が高いのだそうだ。
一番いいのは、寝る前に軽い運動をすることだろう。激しい運動は、逆に睡眠を阻害するのだそうだ。
・2000年4月26日(水)
さすがに毎日更新していくのは困難になってきた。ここのところ休む日がかなり多くなってきた。ある意味、ネタ切れもある、というより、今のこっているネタは過激すぎてこの欄に書くのがはばかられるので自粛しているのだが。
そういえば、学生のころは日記(?)をつけていた。そのころのルールとして、必ずしも毎日つける必要はない、気が向いたときに好きなだけ書くというやり方にしていたので、比較的長く続けることができた。だいたい1日おきに書いていた事が多かったので、私はこれを「隔日記」と呼んでいた。
何かをやろうとするとき、綿密に計画をたてる方がうまくいくように思える。ところが、あまり綿密に計画をたてると、計画の中の何かが狂ったときにどうしようもなくなってしまう。たとえば、毎日日記をつけると決めたとして、旅行とかで日記がつけられない日があったりすると、それがもとで日記そのものが続けられなくなってしまうということは多い。
こういう事態を回避するには、日記を毎日付けるが、旅行の日とかは例外とするとか、つけられなかった日があるときは、翌日にその日を思い出して1行でも書いておくとか、そういう計画にしておいたほうが長く続く。
いい計画というのは、綿密に、効率性ばかり優先したぎりぎりの計画でなく、どんな事態にも対応できる柔軟性に富んだもをいうのではないだろうか。
・2000年4月28日(金)
計画的でないと、昨日みたいにいきなり休んでしまってもそんなに気にならなくなる。とはいえ、最近はあまりに無計画な気がしてならない。このコーナーに何を書くか、一応その日の気分次第ではあるのだが、それでも、これと、これを書こうという予定はあった。ところが、ここにきてそういうものがなくなってきてしまった。このような状態を、専門用語で「ネタ切れ」という。
とりあえず、今日は「おうち占い、総合」を少し改良して、「おうち」のパワーと系統(「あったか〜い系」か「つめた〜い系」かが出せるようにした。というわけで、少しはこのHPの改良をしたということで満足しよう。
・2000年4月30日(日)
昨日から急激に胃が痛みだした。何か最近体の調子がおかしい。調子が悪いと言うより、何か変になったという感じだ。
さて、今日は久しぶりに、占いの話をしよう。
よく、タロット占いの初心者が、「私はまだ本を見ないとカードの意味が分からない」などという人がいます。逆に、プロが本を見ながら占いをすると、「この人大丈夫かな」なんて思ってしまいます。タロット占いができるという以上、本を見なくてもカードの意味が分かるのが当然という風に、一般的には思われているようです。
話は変わりますが、私は、8年ぐらい前、仕事で悩みがあったので、あるお寺のお坊さんに、易占いをやってもらったことがあります。そのお坊さんは、一通り占った後、(このときは、非常に悪い卦である「水雷屯」が3連続で出た)このお坊さんは、点字本を取りだして(このお坊さんは目が見えないんです)、指でしばらく本を読み、それからおもむろに結果を話してくれました。このお坊さんの場合、本が点字だったということもありますが、だからといって、占いの結果がどうのこうのということは感じませんでした。
要するに、プロでも本を読みながら占いをすることがあるんです。
よく考えたら、占いの結果に、本を読むか読まないかは関係ないはずです。むしろ、プロでも、自分の占いが正しいかどうか本で確かめるぐらいの方が、むしろいいのではないでしょうか。
以前、テレビの番組で、「医学書を読みながら診察する頼りない医者」というのをやってたのを見たことがあるのですが、この医者はむしろ慎重で信頼できるという見方はできないのでしょうか(テレビ画面の医者は頼りなさそう(に演出していた)だったが)。
私たちは、小学校から大学入学まで、入学試験、学力テストなど、本を見ながらではできない試験ばかり受けてきています。そして、日本の教育は、記憶力に偏重しているという批評も、最近聞かれるようになってきました。こんな中、私たちは、きちんと記憶していない人はだめな人という価値判断をするようになってしまっているのではないでしょうか。
記憶力は重要な能力ですが、それ以上に大切な能力はいくらでもあります。占いで大切なことは、霊感と、想像力と、何より占う相手への思いやりだと私は思っています。これから占いを目指そうという人は、こういう能力を磨くのがいいのではないでしょうか。
(私は、個人的には占い師は心理学と統計学の初歩は知ってないといけないと思う。)
メールはこちらまで → tamatsuo@mx6.tiki.ne.jp