・脳内探訪 バックナンバー(2月分)        home   脳内探訪

INDEX

日付 曜日 タイトル 内     容 ジャンル おすすめ度
02/01 日本人の宗教への無頓着 日本は安全だからね、宗教に無頓着でいられるのさ エッセイ ***
02/02 休み お休みです。 休み
02/03 休み お休みです。 休み
02/04 休み お休みです。 休み
02/05 休み お休みです。 休み
02/06 やっぱりあせってるよ 東京に行ったらいつのまにかみんなより早く歩いてる 日記
02/07 遺族感情は「作られる?」 遺族は真犯人でなく、警察が犯人とした人を憎む まじめ ***
02/08 画期的な判決って? 尼崎公害訴訟の地裁判決に思うこと まじめ ***
02/09 雪を喜ぶ人、雪で困る人 同じ事でもいい面と悪い面がある エッセイ **
02/10 腹減った・・・ 私はダイエットしてるのに、私より食べてない人は多い 日記
02/11 京都の小学生殺人・ロケット失敗 小学生殺人、これで終わりか?ロケットはもうダメ? まじめ **
02/12 休み お休みです。 休み
02/13 外形標準課税について 東京だけってのはよくないんでない? まじめ ***
02/14 バレンタインデーの秘密 バレンタインデーとクリスマスの関係 バラエティ *****
02/15 「おうち」占い、悪戦苦闘 とりあえず「玄関」をアップしよう 日記 **
02/16 休み お休みです。 日記
02/17 きちんと「手抜き」しようね ここぞというときのために、しっかり「手抜き」しよう エッセイ ****
02/18 体感時間で人生の中間点は? 体感では21歳ぐらいが中間だから、若い時を大切に エッセイ ***
02/19 休み お休みです。 休み
02/20 休み お休みです。 休み
02/21 「おうち」占い、アップしました。 やっと「玄関」がネット上で占えるようになりました 日記 **
02/22 不吉な日ランキング いったい、どの日が一番不吉なのか バラエティ ***
02/23 よっぱらい〜 酒ってどのくらいが適量なの? 日記
02/24 宮崎は寒い 人間って事実よりイメージを優先させるのね エッセイ ***
02/25 休み お休みです。 休み
02/26 休み お休みです。 休み
02/27 占いは外れることもある 占いははずれることがあるから、気をつけよう 占い **
02/28 昨日の続き 不確実なものとどうやってつきあおうか 占い ****
02/29 検査官って強すぎない? 権限の強すぎる検査はかえってよくないのでは? まじめ **

・2000年2月1日(火)
 今日から2月である。ということで今まで見にくかった背景を見やすく変えてみた。
 今日はいろいろあったのだが、とりあえずここでは昨日の続きをいってみたい。
 昨日は、日本人は宗教的に無頓着、よく言えば寛容ということを書いたと思う。実際、日本人には、異教徒に対する憎しみが理解できないだろう。1年ほど前、私は「千夜一夜物語」をちゃんと読んでみようと思って、文庫本を買ってきたのであるが、その物語の内容があまりにもひどく、読む気をなくしてしまった。というのも、物語の至る所に、これでもかという具合にキリスト教の悪口−それも読むに耐えないほどの汚い言葉で−が書かれていたからである。別に、私はキリスト教が好きなわけではないが、その汚い言葉は好き、好きでない以前に不快感を覚えるものであった。
 これほどに、世界の多くの国の人々は異教徒に対して、憎しみ、そこまでいかなくても違和感を感じているのに、なぜ日本人は(いろいろな宗教を生活の中に無節操に取り入れて)違和感を感じないのだろうか。考えてみた。
 ちょうど、テーブルトークRPG(ロールプレイングゲーム)の本に、この宗教について書いてある部分があって、なぜ、異教徒を嫌うのかについて、こんなことが書いてあった。
 −違う宗教を信じている人は、何をするか分からない。いきなり生け贄になんかされたらかなわない−
 思うに、世界の多くの場所では、自分と他人の価値観が異なるのが当たり前である。それも、場合によっては、人を殺してはいけないとか、人のものを盗んではいけないとかいうレベルですら、価値観が共有できないという状態みたいである。このような状態では、相手を信用することなどできない。下手すればいきなり殺されるかも知れないのである。
 そこで、宗教というものが彼らにとって大きな役割をしていたのではないか、と推測されるのである。同じ宗教を信じている限り、その宗教の教えの範囲内では同じ価値観をもっているということができる。たとえば、宗教で「人を殺してはいけない」という教えがあれば、その宗教の教徒である以上、いきなり殺されることはないだろうと思っていいわけである。こうして、人と人の価値観の標準として、宗教が位置してきたのではないだろうか。であるから、違う宗教を信じている人との間には、価値観が相容れない→仲間として認められない→敵対という構図があるのだと推測される。
 さて、日本ではどうだろうか。基本的に日本は島国で、民族も単一に近い。そのため、宗教に頼らなくても、日本人同士の価値観の同一性というのは、結構簡単に導き出される。つまり、日本人は、日本人であるというだけで、価値観をある程度共有できるという他の国にはない特徴を持っている。
 そのため、宗教が異なることが、価値観が相容れない→信用できない→敵対という構図を描くことがない。これが日本人が宗教に無頓着でいられる理由ではないだろうか。
 その証拠に、日本人は未だに外国に対しては排他的である。これは、「日本人であること」が、世界の多くの人の「宗教」にあたるものだと解釈すれば、外国人が異教徒に対してとる態度と、日本人が外国人に対してとる態度が同じような感じになることは容易に理解できるのではないか。

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・2000年2月6日(日)

 先週は久しぶり(1年以上ぶりである)に東京に行って来たので、週の後半は更新を休んでしまった。もっとも、楽しみにしている人も(今のところは)いないので、気楽である。
 東京というのは変化の激しい町で、1年も行かないと全く様子が変わってしまう。
今回も前に東京に出てきたときとだいぶ様子が変わっていたので、道に迷いそうになってしまった。
 今回の上京で気になったのは、歩くスピードである。私が十数年前、はじめて上京したときは、東京の人の歩くスピードの速さにびっくりしたものである。当時、宮崎ではダントツに歩くのが速かった私が、東京の人からはどんどん追い越されるのである。
 ところが、今回の上京では違った。時間がなくて急いでいたせいもあるが、今回は私の方が人混みをかき分けて進まなければならないほど速く歩いていた。この逆転現象に、私は「あせってるんだなぁ」という感じを覚えずにはいられなかった。
 最近、どんなことでもであるが、自分がやったことに対して結果がすぐに出ないとイライラするようになってしまった。最近はインターネットでいろいろやっているのであるが、いくらインターネットが即決とは言っても、ものによってはレスポンスがくるまでに数週間かかるのは、冷静に考えれば当たり前である。ところが、最近では、例えば誰かにメールを送って、次の日に返事がこないと、不発だと思ってしまうようになってしまった。何でこんなに焦っているんだろう。

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・2000年2月7日(月)
 今日、15年前に少年が女子中学生を殺したとされた事件で、被害者の遺族が起こしていた民事訴訟の最高裁判決が出た。高裁の判決が取り消され、差し戻しになったようである。ニュースを聞いている限り、この「元」少年たちの無実が認定される可能性が高くなったみたいだ。
 もし無実なら、被害者の遺族としては、自分で起こした裁判が被告の無実を立証する場になるという皮肉な結果になるのだろうが、もし無実という判決になった場合、被害者側の人間は、この「元」少年たちを、それでも犯人だと思い続けるのかどうか、非常に気にかかる。もし、そうであったなら、お互いに不幸なんじゃないかと思えてならない。
 裁判はあくまでも法律的な決着である。もちろんそれはそれできわめて重要なのだが、それとは別に、それぞれの当事者間の心の問題というのが重要な位置を占めるのではないかと思う。もし、判決確定後も、被害者の遺族がこの「元」少年たちを犯人だと思い、憎み続けるなら、この事件は何にも解決していないのと同じなんじゃないかとすら思う。
 ところで、この、被害者の遺族は、なぜ、この「元」少年たちを憎んでいるのか考えてみよう。そんなこと考えるまでもないと思うかも知れないが、被害者の遺族たちは、この「元」少年たちの犯行現場を直接見たわけではないのだから、直接的に彼らを憎むいわれは、実はないのである。それじゃどうして憎んでいるのかというと、端的に言えば、捜査当局が「こいつらが犯人です」と提示したからに過ぎない。
 これだけではわかりにくいので、もう少し詳しく考えてみよう。
 被害者の遺族は、愛する人を奪われたわけだから、ものすごい憎しみの感情を持つ。しかし、犯人がだれか分からないうちは、その憎しみを持っていく場所がない。
 これはとてもつらいことである。
 こういうひどいことでなくても、多くの人は、なにかいやなことがあって、それを誰かのせいにできないときは、ものすごくイライラするのではないかと思う。
 こういうとき、私たちは、その怒りや憎しみの矛先をどこかに持っていきたいと思うものである。そうして、何か関連がある人、時には関連をこじつけて、そこに矛先を持っていくことってあるのではないだろうか。そして、その矛先が、怒りや憎しみの原因と関係ないとき、我々はそれを「八つ当たり」と呼ぶ。
 さて、被害者の遺族の話に戻る。前述のとおり、犯人が分かるまで、被害者の遺族はやり場のない怒りに相当苦しむことと思う。そんなとき、捜査当局が、容疑者を特定すれば、そのやり場のない怒りが、その容疑者に向かうことは自然の成り行きである。そのとき、その容疑者が、本当に犯人かどうかなんて、考える余裕などないはずである。
 かくして、捜査当局が容疑者を挙げた時点で、その容疑者は、自分が真犯人かどうかには全く関係なく、被害者側の憎しみを一手に受けることとなる。場合によっては、後で真犯人があがったとしても、最初に容疑者とされた人に対する被害者側の憎しみは容易には解けないのではないだろうか。
 ここまで考えてみれば、「遺族感情」は、「作られる」ことがあるのだ、ということが分かるのではないかと思う。これは、容疑者側にとっても、被害者側にとっても、きわめて不幸なことである。また、刑事裁判の判決文の中で、「遺族感情に考慮して」という言葉は非常によく使われるが、「遺族感情」が「作られる」可能性があることを考えると、この言葉を簡単に使うのは危険なのではないだろうか。

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・2000年2月8日(火)
 このコーナーもだんだん内容が過激になっていっているような気がする。今のところ、見に来ている人がほとんどいないが、見に来る人が増えてきたら恐ろしいことが起きそうな気がする。私自体は、少しずつ過激になっているのだが、読む方はいきなりだから、何じゃこれは!ってなことになりそうな気がする。
 さて、今日もかなり内容が過激になりそうだ。
 今日、尼崎公害訴訟について、国側が控訴することを決めた。この控訴に、原告側の怒りが各新聞で伝えられていたが、ここではちょっと視点を変えて、なぜ国が控訴したのかを考えてみたい。
 裁判の長期化は原告の住民側の負担が大きいことはもちろんだが、国側にとっても負担は決して軽くないはずである。これは想像だが、国側の担当者は、「え?控訴すんの?いやだなあ」と思っているだろう。
 国としても公害病患者の惨状はよく知っているはずである。彼らも人間だから、少なくとも個人的には「何とか救済したい」と思っていることは想像に難くない。であるから、今回の判決で、現場の第一線の担当者は内心ほっとしているのではないだろうか。もし、そうでなくても、ここで控訴することによる国に対する批判を考えれば、国にとって控訴が得策とはとても思えない。
 それじゃ、なぜ、国は控訴に踏み切ったのだろうか。

 私たちがまだ子供のころ、「たまには勉強しよう」と、自発的に机に向かおうとした矢先に、母親から「勉強しなさい!」と言われてカチンときたことがある人は多いだろう。
 今回の国の控訴は、なんとなくこれに似ているのではないかと思うのである。
 国も環境対策に手をこまねいているわけではない。評価はいろいろあるだろうが、少なくとも現場の担当者は必死でやっているはずである。それを、裁判所が、頭ごなしに「粒子状物質を出すな」と言えば、現場で頑張っている人間の立つ瀬がないではないか。
 今回、国が控訴に踏み切った背景には、このような理由があるのではないだろうか。
 ところで、この判決もそうだが、いわゆる「画期的な判決」が出るのは、たいてい第1審であることが多いような気がする。例えば、ロス疑惑で実行犯不特定のまま、犯行を指示したとされる被告に無期懲役判決を下したり、もっと昔では自衛隊違憲判決とか、衆議院の定数訴訟における違憲判決とか。
 これらの判決は、一見画期的でかっこいいが、その反面問題も多いのではないだろうか。その証拠に、この種の判決は、上級審で何らかの修正が加えられていることが多い。上級審が保守的に過ぎると言ってしまえばそれまでだが、それでも、1審判決というのが荒削りではないかという印象をぬぐい去ることはできない。
 こんなことを言うと裁判官は怒るだろうが、1審の裁判官は、心のどこかに、「まだ上級審がある」という意識があるんじゃないかなあという気がする。そのため、問題が多少残るかも知れないと思いつつ、「画期的な」判決をついつい出してしまうのではないだろうか。
 もっとも、私は、もしこれがほんとだったとしても、悪いとは思わない。そうやって野心的な審判を行うことは、社会の発展にとって必要不可欠だろうから。

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・2000年2月9日(水)
 昨日、一昨日と、肩の凝るような内容が続いた。このタイプの話は、最初は面白みがないのだがいつのまにかのめり込んでしまうという傾向がある。今日は、すこし柔らかい話をしてみたい。
 昨日は、滅多に雪が降らない宮崎市でも雪が降った。実は、南国宮崎でも、山間部では毎年のように雪が降り、積もるときには積雪30cmなんていうこともある。実際、今日、私は雪が積もっている山の中を一日中駆け回っていた。雪に慣れていない私は、何度も足をすべらせ、あわや転落というのが何回かあった。
 私は、宮崎市の近くの出身なので、子供の頃はほとんど雪というものを見たことがない。小学生のころ、1回だけ雪が10cmほど積もったことがあって、そのときは、1時間目をつぶして、みんなで雪合戦をやった記憶がある。そんなだから、雪が積もるという景色に対して、一種のあこがれのようなものがあったりする。
 昨日も雪が積もってるといいなと思う反面、雪が積もったら寒いし、道路は滑るし、いやだなあという気持ちもあって、なかなか複雑であった。結局あまり雪は積もらなかったのだが、ほっとした反面、何か残念な気がした。
 私1人にしてもこうだから、単に雪ひとつとっても、人によってその受け止め方は様々なんだろうなと思う。極端に言えば、雪のために命を落とす人がいるかもしれないし、雪のおかげで思っても見ない幸運を射止める人もいるのかも知れない。
 私たちは、何かが起きたとき、それがいいことか、悪いことか、というような判断をする。例えば、大地震が起こるのは悪いことだし、景気が回復するのはいいことだというように。でも、中には大地震のおかげでトクをする人もいるだろうし、景気が回復したために不幸になる人もいるのかも知れない。こう考えると、1つの物事を、いいこと、悪いことと単純に決められなくなってしまう。というより、物事にはいい面、悪い面の両方が必ずあるのだろう。
 逆の言い方をすれば、どんなことが起こっても、その出来事のいい面をうまく利用していけば、私たちは幸福に近づいて行くことができるのではないだろうか。
 

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・2000年2月10日(木)
 最近妙にイライラするなあと思っていたところだが、何でか理由が分かってきた。
 健康診断で、血液検査の結果が良くなかったので、医者にいったところ、「肝臓がフォアグラになっている」と言われ、体重を減らさなければならなくなってしまった。それで、食事の量をとにかく減らしているのだが、そのためいつも腹が減った状態が続いている。極端に言えば、食事をした直後ですら、「腹減った」である。これではイライラして当然であろう。
 ところで、腹が減っていつもイライラしていながらやせるのと、いつも満足に飯を食って思いっきり太るのでは、どちらが健康にいいんだろうか。精神状態がよくないと、体にも悪影響を及ぼすというのは最近では常識になってきている。とはいえ、肥満は万病のもとで、だいいち動きづらくなってしまう。
 いつも満腹まで食べながらやせるのが一番いいのだろうが、そんなことはまずできない。私は、とにかく腹が減るので、水やコーヒーをガブ飲みして飢えをしのいでいる。
 私は小さい体のくせに大食漢で、小学生のころはみかん1箱(15kg)を2時間ぐらいで平らげたこともある。学生の頃は、苦労して買った炊飯器で4合の米を炊いて、炊きあがったそばから全部平らげてしまったということもあった。
 しかし、よく考えれば、食事の量を減らしてひもじい思いをしている私と同じだけ食べる事ができる人が、世界にどのくらいいるのか考えると、恐ろしくなる。おそらく、食事制限をしている私より、普段の食事が少ない人は、世界中に何億人といるだろう。

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・2000年2月11日(金)
 今日は「建国記念」ということで、お休みでした。とはいうものの、今日はほんとに何もしない1日を過ごしてしまった。
 ところで、今日朝のワイドショーをちらりとみていたところ、京都の小学生殺人事件の話と、ロケット打ち上げ失敗の話をしていた。今日はこの2つについて書いてみたいと思う。
 まず、京都の小学生殺人事件の話。容疑者自殺という釈然としない結末に終わったこの事件なのだが、私はもう一つ疑問が残る。
 というのは、最初は現場に残された靴などのサイズから、犯人は中学生ぐらいと推定されていたはずである。ところが、実際に容疑者とされたのは21歳の男であったわけである。それにもかかわらず、現場に残された靴などのサイズが、この容疑者のサイズと一致したという報道は、まだ聞いていない(私が知らないだけかも知れないが)。当然、最終的にはそういう検証もするのだろうが、もし、サイズが合わないとなると、かなり話がややこしくなってくる。
 これはあくまでも想像だが、今回の事件は複数の人間が犯行に関わっているという気がしてならない。こういう事件が複数の人間によって引き起こされるというのは、常識では考えにくいが、あり得ない話ではない。今回の事件にしても、学校教育に不満のある人同士が意気投合すれば、複数の人間で犯行を行うということも考えられないわけではない。
 もしそうだとしたら、まだ事件は終わっていないことになる。残っている謎も多い事件なので、さらなる解明が必要だろう。

 さて、次にロケット打ち上げの失敗についてである。何年前だっただろうか、やはりロケット打ち上げに失敗して、各マスコミは一斉に780億円が水の泡に消えたと報道したことがあった。私は、あの時点で、日本の宇宙開発はもうだめだろうと思ったのだが、やっぱりそうだったみたいだ。
 なぜ、私が日本の宇宙開発がだめだと思ったのか。答えは簡単で、宇宙という壮大なものに挑もうとしている矢先に、金の話が前面に出てきたからである。
 おそらく、ああいう報道がされたことで、ロケットの開発に担当する人たちは金のことが頭から離れなくなったのだろう。おそらく、各方面から税金の無駄遣いと非難されただろうし、ロケットの失敗とは直接関係ない部分についても、無駄遣いがないか根ほり葉ほり詮索されたはずである。
 そうなると、現場で開発するスタッフとしたら、何をするにしても金のことが頭から離れなくなってしまう。そうすると、部品の選択1つにしても、高くて性能の良い部品が使いづらくなってしまう。というのも、高い部品を使いたくても、その理由を明確に説明できないと、無駄遣いのそしりを免れないからである。
 だいいち、いいものを作ることに神経を費やさなければならない開発者が、金のことに気をとらわれていたのでは、まともなものができるわけがない。こんな状況では、いいものを作れというのがどだい無理な話である。
 残念なことに、今回の打ち上げ失敗でも百数十億円が消えたという報道をしている。宇宙という壮大な未知の世界に挑もうとしている人たちに対して、我々は後ろから非難の矢を浴びせているのである。言ってみれば、敵と戦っている前線部隊を、後ろから攻撃しているようなものである。そんなことをやっておきながら、まともな成果を出せというのが無理な話なんじゃないだろうか。
 もし、日本でも宇宙開発をちゃんとやりたいのなら、とにかく金に糸目を付けずに、最高のものをもう一度作るべきであろう。金のことは言わない。これを徹底させなければならない。会計検査も入ってはならない。とにかく開発スタッフを金の呪縛から解き放たなければならない。
 それができなければ、もう日本は宇宙開発はあきらめるべきだ。

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・2000年2月13日(日)

 この「脳内探訪」も、ついに4週間目に突入した。内容が日によって著しく違うということもあって、何のことかわかりにくい面もあるであろう。そこで、そろそろ内容ごとのインデックスを作ろうかと考えている。
 さて、いままで意図的に避けていたのであるが、いろいろ考えると、どうしてもこの話はしておかなければならないようなので、今日は東京都が打ち出した外形標準課税について書いてみたい。
 東京都が独自に打ち出した外形標準課税は、各方面に波紋を投げかけた。国は思いとどまって欲しいという反面、地方自治体はおおむね好意的である。
 さて、東京都が外形標準課税を適用するとどうなるのだろうか。
 仮に、東京に本店があり、福岡に支店がある会社があるとする。このとき、東京都は外形標準課税で事業税を課し、福岡県は従来どおりの課税だとすると、この会社はどうするだろうか。
 東京にある本店では、純利益に関係なく課税されるが、福岡にある視点では純利益が多いほど多額の税金がかかるわけだから、全体の利益が同じならば、東京の本店の利益が高く、福岡の支店の利益が少ない方が、全体としての課税額は少なくなる。
 そうすると、この会社では、得た純利益について、できるだけ東京の本店で得たように経理する方が、相対的な税金が安くなることになる。例えば、全体で100億円の利益があった場合、東京で50億、福岡で50億の利益とするより、東京で80億、福岡で20億の利益としたほうが、全体的に払う税金は少なくなる。本店と支店で、どこが純利益を上げたかなんてことは、あいまいだろうから、この手の経理操作はいともたやすいことだろう。
 そうするとどうなるか、東京都は外形標準課税なので税額は変わらないが、福岡県は純利益を低く計上されるので事業税収入が激減することとなる。
 したがって、東京都の外形標準課税導入のために、他の自治体の事業税収入が激減することになる。−ということは、今回の外形標準課税は、結果だけを見れば、単に、東京都が他の自治体から金を取り上げる−ということにほかならない。
 外形標準課税自体は、脱税がしにくくなるなど、メリットは多いと思うが、東京都だけがこういう方法を導入するのは、結果だけで言えば大きな問題である。
 それじゃ、他の自治体も外形標準課税を導入すればいいのか、というと、そうはいかない。東京都は日本の首都で、世界最大級の都市であるから、企業は東京を簡単に離れることはできない。しかし、宮崎みたいなところがこんな形で外形標準課税を導入したりすれば、企業はそうでない他の都道府県に逃げてしまうに違いない。つまり、今回のようなことは、東京都が首都である、大都市であるということではじめて可能になったことであり、一部の学者や評論家が言っているような、地方分権への前進というのは、少し違うような気がする。
 はっきり言ってしまえば、今回の石原知事の方針は、大都会のエゴに過ぎないのである。
 (本当はこれから先は書きたくない。なぜなら、私は
宮崎県民であり、石原知事が運輸大臣だった頃の「ブタ小屋、トリ小屋」発言を忘れることができないから、そのために冷静な評論ができない恐れがあるからである。そのため、この話は意図的に避けていたのである。)

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・2000年2月14日(月)
 今日はバレンタインデーである。私にはあまり関係ない日であったが、多くの人が幸せを得ることができる日であろう(そうあって欲しいものだ)。
 さて、今日はちょっと変わった話をしてみたい。
 この話は本当はクリスマス・イブのときに書こうと思ったのだが、次のイブまでが長いので、ここで書くことにした。
 クリスマスが近づくと、若い男女は落ち着かなくなる。彼氏、彼女がいる人は、今年のクリスマスはどうやって過ごそうかと思いをはせ、シングルの人は、クリスマスを一緒に過ごす人を見つけなければと、ある意味で期待を込め、ある意味であせって時を過ごす。そうして、首尾良くことが運べば、クリスマスのロマンチックな夜を、愛する人と過ごすことになるのである。
 クリスマスは、キリストの生まれた日(実際はそうではないらしいが)とされている。私は、生まれてこのかた、愛する人と過ごすなんて幸せなクリスマスを過ごしたことがないので、そういう人たちをひがんだ目で見てしまう。そんなもんだから、ちょっとひねくれて、
「クリスマスはキリストの生まれた日なんだから、キリストになぞらえて愛を交わすのなら、クリスマスの十月十日前にするのが本当なんじゃない?」なんて思ってしまったのだ。
 さて、クリスマスの十月十日前って、いったいいつなんだろうか。12月24日の10ヶ月前は
 12−10で2月、
24日の10日前は、
 24−10で14日
・・・・ということは、
 そうなんです。2月14日になってしまうんですねぇ。
 つまり、2月14日というのは、・・・・・これ以上言うとキリスト教の人に怒られそうだからやめますが、これに気づいたとき、キリスト教ってのは良くできてるなぁ、と思ったのである。
 そういうわけで、本日は真の「愛の日」なのである。多くの人に幸せあふれる日であって欲しいものだ。ついでに、私のところにも・・・・

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・2000年2月15日(火)
 このページはなにやら堅い話ばかりしているので、昨日みたいな話をたまにすると、なんとなく新鮮である。できるだけこういう話をしていきたいものだ。
 この前の3連休に、いろいろ占いのサイトを見て回ったのだが、電化製品占いとか、回転寿司占いとか、いろいろな占いがあるようだ。幸か不幸か「おうち」占いというのはなかったようだ。
 どのページも、CGI(ホームページ上で動かすプログラム)を使って占いができるようになっているみたいだが、残念なことに私がアップしているところではCGIが使えない。第一、CGIのプログラムを組む技術がない。JAVAスクリプトでも使おうかとも思ったのだが、それもどう動くか分からないので、今のところ2の足を踏んでいる。
 そこで、「おうち」占いの「玄関」の部分だけでも、CGI、JAVAなしでできないか考えてみたところ、何とかできそうだという結論に達したので、(その代わりものすごいことになる)それをやってみようと思う。なんとか、今週の週末にはそれがアップできるよう頑張ってみたい。
 ちなみに、「おうち」占いの説明を読めば、簡単に「玄関」の部分が分かるようになっている。

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・2000年2月17日(木)
 昨日は帰宅が遅かったので1日休んでしまった。もっとも、休んだってだれも文句を言うわけではないのだが。
 さすがに年度末が近づいてきたので、仕事がかなり忙しくなってきた。毎年のことだが、この時期は殺人的なスケジュールをこなさなければならない。今年は、はっきり言って楽な方だが、それでも、残業がかなり多くなってきた。
 おそらく、どんな人でも、1年に1度ぐらいは、目の回るほど忙しい時期があるだろう。そういうとき、私たちは、超人的な威力を発揮して、目の前の山のような仕事を片づけていく。だから、あとでヒマになったときに、そのときを思い起こしてみれば、よくあんな事ができたもんだ、と自分の事ながら感心するのではないだろうか。もし、そういう忙しい時期が一生続いたら、と思うと、想像するだけで倒れそうになるのではないだろうか。
 ところが、これが他人の事になると話ががらりと変わってしまう。例えば、午後3時頃にレストランに行くとする。その時間は普通レストランはヒマだから、従業員の態度もキビキビはしていないはずである。すると、そういう従業員の態度を見て「なっとらん!」と怒る人は少なくないのではないだろうか。これが、ランチタイムの忙しい時間帯なら、従業員の態度もキビキビしている。我々はそういう姿が当たり前だと思っているので(通常、レストランに行く時間帯はランチタイムの時が多いから)、そうでない、ダラダラした態度を見ると、たるんでると思ってしまうのである。
 しかし、最初に書いたとおり、一日中ランチタイムのように頑張るのはどだい無理である。それを理解していないと、3時頃の従業員の態度が、「なっとらん!」と思うようになるのである。
 このように、我々は、仕事をしている人間が気を抜くのを許さない傾向がある。特に、日本は、精神力の国で、精神力さえ有れば何でもできると信じている人が少なくないので、こういう傾向は世界的にも高いであろう。これは、恐ろしいことである。
 「手抜き」という言葉がある。決していい言葉とはとらえられていないが、「手抜き」の語源は囲碁からきている。今戦っている場所に石を打たずに、他の、もっと効率のよい場所に打つことを「手を抜く」という。これによって、今戦っているところでは不利になっても、全体としては有利になることが多い。したがって、「手抜き」というのは、決して悪いことではないのである。
 囲碁は1度に1個しか石を置くことができない。であるから、一番効率の良い場所に石を置こうとする。今係争中の場所があっても、それより効率の良い場所があればそっちに打った方が有利であるから、「手を抜く」のである。
 さて、実際の仕事に話を戻そう。さっきのレストランの例では、ランチタイムが重要な時間なので、その時間には集中力を使う。そして、ランチタイム以外は、ランチタイムほどの重要性がないので、「手を抜く」のである。つまり、手を抜いて、その分の集中力をランチタイムに回すのである。したがって、ランチタイム以外にダラダラしているのは、決して悪いことではないのである。
 ところが、世の中には、集中力は無限にあると信じて疑わない人がいる。これは、囲碁で言えば、1度に2つも3つも石を置くことができると思っているのに等しい。こういう誤解があるから、必要性の薄いときに集中力を欠いた者を平気で非難できるのであろう。
 人間の集中力には限界がある。その限界のある集中力を有効に使うため、必要性の薄いところでは積極的に「手を抜く」べきである。逆に、それができないと、本当に重要なところでミスをしてしまう。
 そして、我々は、他人の些細なミスを厳しく非難することは厳に慎まなければならない。それをやってしまえば、些細なことに気を取られて大勢を見逃してしまい、取り返しのつかないことになってしまうだろう。 

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・2000年2月18日(金)
 1週間というのは短いものである。今週も、もう金曜日になってしまった。
 しかし、今思えば子供の頃は1日が長かったような気がする。寝る時間はだいたい9時ぐらいで、起きるのも7時半ぐらいだったのに、学校に行って、学校が終わったら日が暮れるまで遊んで、そして家で宿題をしてテレビを見たりおもちゃで遊んだり・・・なんか、今より数倍いろいろやっていたような気がする。一般的に、年をとると時間が短く感じるようになるみたいである。
 そこで、今日は少し変な話をしてみよう。我々が感じる時間の長さに換算したときに、人生の中間はいったいいつになるのだろうか。
 我々は年をとるごとに時間が短く感じるようになる。おそらく、それは今まで過ごしてきた時間が長くなるからであろう。時間というものに慣れてしまって、時間が過ぎることに大きく関心を払わなくなるからかも知れない。
 そこで、
−感覚的な時間の長さは今まで過ごしてきた時間の長さに反比例する−
 という仮説を立てて、体感時間での人生の半ばというのをだしてみよう。
 ・・・と、ここで、本当は微分積分の計算式をドドド・・・と出すのが本当なのだが、それは面倒だし、そんなことをしても誰も読んでくれないので、結論だけ述べる。
 前に計算してみたのだが、物心が付く4歳から75歳までをこの方法で計算したところ、人生の中間はだいたい21歳と出た。つまり、成人式ぐらいで、体感的には人生の半分を過ごしてしまっているのである。
 さて、そう考えてみると、若い時期というのがいかに大切かというのが分かってくるのではないだろうか。最近は、少子高齢化が進み、産業、政策も高齢者よりに偏りつつある。逆に、子供向けの商売は成り立たなくなり、縮小を余儀なくされる。そのため、子供のためのものが、これからどんどん減っていってしまう。そうなってしまえば、体感時間の長い子供時代に、人生を十分に謳歌することができなくなってしまう。これではいけない。
・・・ 
 本当は、今日は軽い話でいこうと思ったのだが、また重たくなってしまった。来週こそは軽い話のオンパレードといきたいものである。
 

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・2000年2月21日(月)
 先週、やっと「おうち」占いの、「玄関」の部分が完成した。なんと、この占いは、JAVAスクリプトもCGIも全く使っていないという、非常に恐ろしいものである。最初の日には何人か来ていたみたいだが、今のところ来客数は少ない。ま、ぼちぼちやっていけばいいかと思っている。
 最も、「おうち」占いをここで終わらせたのでは意味がない。ちゃんと、残りの5つの部屋についてもやっていかなければならない。もっとも、この「おうち」占いは、ネット上で占うのが目的ではなくて、できるだけ多くの人に、この占いのしくみを理解してもらうことが目的で、ひいては四柱推命の普及になると・・・という目的なのである。
 そろそろ、占いの話も、構成を一新して、「おうち」占いの詳しい説明をしていきたいと思う所である。

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・2000年2月22日(火)
 本当は前の週の分はバックナンバーに落とそうかと思っていたのだが、それよりも、ジャンル別に整理した方がいいのではないかと思いたち、今週は2週間分を表のページに書くことにした。
 さて、今日は、ちょっと変なことをかいてみようと思う。
 不吉な日・・というと、みなさんはどんな日を思い浮かべるだろうか、仏滅とか、三りんぼうとか、天中殺とか、13日の金曜日とか・・・・・
 ところで、こういう日がほんとに不吉なのかというと、仏滅はだいたい6日に1回来るし、三りんぼうも月に1〜2回ある。天中殺は12日に2日、12ヶ月のうち、2ヶ月、12年に2年あるので、重なるのを重複して考えれば、全体の半分が天中殺なのである。
 13日の金曜日はというと、単純に考えれば7ヶ月に1回なので、ここに挙げた中では最も回数が少ない。ということで、いま挙げた中では13日の金曜日が一番不吉である・・・・と思うでしょう?が、私の経験では、13日の金曜日に生まれた人にはなぜかツイている人が多い。実は、13という数は、カバラ(ユダヤの秘法)ではむしろラッキーな数らしく、また、金曜日というのも、実はラッキーな曜日らしい。どうも、キリスト教が、キリスト教以前の宗教でラッキーな数、曜日だった13日や金曜日を、不吉なものにしてしまったのだそうだ。
 実は、このように、私たちが不吉だと思っているものが、場所によっては幸運のシンボルだったりすることは多い。例えば、蛇がそうである。我々は通常、蛇を嫌うものだが、一方で、蛇が信仰の対象になっているのは珍しくない。
 さて、私たちが、朝、不吉なものを見たりしたとき、例えば、朝の通勤、通学の途中に黒猫が横切った場合など、私たちはどういう気持ちになるだろうか。たいていは、なんかいや〜な気持ちになる。そして、そういう気持ちになってしまうと、本当に悪いことが起こってしまったりする。そう考えると、不吉なものがあるというのは、マイナスが大きいような気がする。
 それなら、そういう不吉なものは、見方を変えて、ラッキーと思う方が絶対にトクである。例えば、「今日は13日の金曜日」というとき、「実は今日はラッキーな日だ」と思えば、その日1日が楽しいし、うまくいけば本当に幸運に巡り会うかも知れない。不吉だと思うのとは雲泥の差である。
 ということで、今日から、不吉な日は全部ラッキーデーに変えてしまいましょう。

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・2000年2月23日(水)
 今日はアルコールが入った状態でここを書いています。いわゆる「酔っぱらい」であります。さて、中学校での国語の時間を思い出してみましょう。そうです。「い」で終わる言葉は「形容詞」でしたね。ということで、「酔っぱらい」は「い」で終わるので、形容詞なんですねぇ。・・・・
 ところで、「酒は百薬の長」といいますが、たいてい飲み過ぎると肝臓を壊してしまいます。私の場合、ほとんど飲まないのですが、健康診断で、アルコール性肝障害と診断されてしまいました。とりあえず病院で薬をもらっているのですが、私の場合、家ではまず飲まないし、外でも、せいぜい週に1回、それも、水割りをシングルで2〜3杯程度しか飲まないので、そんなに飲んべぇではないはずなのです。
 さて、「酒は百薬の長」に戻りますが、「百薬の長」というからには、このくらいの量なら健康によいという量が、どこからか発表されていていいはずなのですが、そういう発表には、いまのところお目にかかっていません。誰か、きちんとした適量を提示してくれるといいのだがと思うのですが・・・・

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・2000年2月24日(木)
 冬だから当たり前なのだが、最近寒い日が続いている。南国宮崎といえども、真冬は寒い。最低気温が氷点下になることも珍しくない。山の方では雪が積もることも珍しくない。おかげで今日は一日、あまり体調がよくなかった。
 そういえば、昔国語の教科書か何かで読んだことがあるのだが、熱帯の暑い所に住んでいる人は、「暑い」という言葉より「寒い」という言葉を使う事が多いそうである。年中30度を超えているような熱帯地方で、何で「寒い」んだよー、と思うのだが、実は、熱帯地方では、年間の気温の変動より、1日の昼と夜の気温の変動が激しいのだそうだ。そのため、昼間暑いなかで過ごしてきた後、夜になって気温が下がると、「寒い」のだそうだ。私は、残念ながら熱帯地方に行ったことがないのだが、おそらく私が熱帯の夜を体験したら、「寒い」と思うのではないだろうか。
 熱帯地方は暑い、宮崎は南国・・・と、我々には、固定したイメージがある。ところが、実際は、熱帯も宮崎も、寒い時があったりする。このように、我々が常日頃いだいているイメージというものは、実際とは異なることが多いのではないだろうか。
 それにもかかわらず、人間という生き物は、イメージで行動することが多い。極端な場合は、現実に目の前で起こっていることと、自分がもっているイメージが異なる場合、自分のイメージに合わせて現実を歪曲してしまうことがある。
 有名な心理テストで、絵を数秒間見て、後で絵の内容を答えるというものがある。その中に、サラリーマン風の男と、ヤクザ風の男がけんかしている絵がある。そして、この絵に関して「ナイフを持っていたのはサラリーマン風の人でしたか、ヤクザ風の人でしたか」という質問がされている。実は、絵ではナイフをもっているのはサラリーマン風の人なのだが、この質問に対して、ほとんどの人が「ヤクザ風(の人がナイフをもっている)」と答えるのだそうだ。
 このように、我々は自分の中に持っている固定的なイメージ(固定観念とも言う)によって、とんでもない判断ミスをしてしまう事がある。時には、自分のイメージを離れて、いろいろと考えてみる必要があるのかも知れない。

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・2000年2月27日(日) 
 いつの間にか、このホームページも6週目に突入してしまった。「おうち」占いを、「無料占いリンク集」に登録してもらったので、このHPもカウンタがようやく100を越える事が出来た。管理人さんに感謝感謝。
 現在、「おうち」占いの本格始動にむけて作業中です。本当は、「おうち」占いに集中するため、この「脳内探訪」をしばらく休もうかとも思ったのですが、どうやら見に来てくれる人がいるようなので、頑張って両立させようと思っているところです。
 それでは、今日は、ちょっと占いについて書いてみたいと思います。
 私は、趣味で占いをやっています。おそらく、プロになっても何とかなる程度の腕はあると思っているのですが、私は、生活に困ってどうしようもない、ってことにならない限り、占いはアマチュアで通そうと思っています。
 その理由は、いくつかありますが、その1つに、
 「占いは、はずれることもあるということ。」
ということがあります。 
 プロになってしまえば、立場上自分の占いがはずれたとは言いにくいでしょう。そのため、「こりゃはずれたな」と思っても、なんとか結果をださなければなりません。しかしながら、占いは的中率100%というわけにはいかないものだから、はずれたときは、はっきり「はずれですね」と言った方がよいと思うんです。
 私自身の経験で、こんなことがあった。
 その日は、私がよく行く「樫の木」という店で、その店に来ていたお客さん14人全員を占うということになってしまった。そのときの占いはタロットでやったのだが(私は、タロット占いと四柱推命を主にやっています)、ある人を占っているとき、かきまぜているカードの動きが何か変だった。カードが不自然にクルクル回ってしまうのである。そのとき、私はカードを新しく買って間もなかったこともあり、「こりゃやばい」と思ったのである。
 とはいえ、そこで占いを中止するわけにもいかないので、とりあえずカードを並べてみたところ、思った通りひどいカードのオンパレードになってしまった。その人には、「どうもカードの調子がおかしかったみたいだ。これは私の方に問題があるから、気にしないでください」といって謝ったのだが、これも、アマチュアだからこそ可能なのである。
 さて、この「占いははずれることがある」ということは、結構重要である。つまり、占いにすべてを託すのは危険だということである。逆に、「はずれることがある占いは使い物にならない」というのも正しくない。「はずれることがある」ことを、きちんと認識していれば、占いは、結構役に立つものになるはずである。
 ・・・と、長くなりそうなので、この続きは、また別の機会に書くことにしよう。

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・2000年2月28日(月)
 昨日書いたところを読んでみると、今日はその続きを書かなければならないみたいである。そこで、今日は、その続きを書いてみたい。
 世の中には、「確実な」ものと、そうでないものがある。そして、我々は、普段は「確実な」ものとしかつきあおうとしない。例えば、100円を入れて確実にジュースが出てくる自動販売機と(それが普通だが)、値段は80円だけどジュースが出てこないことがある自動販売機があった場合、我々は確実にジュースが出てくる自動販売機でジュースを買う(当たり前か)。そして、ジュースが出てこないことがある自動販売機を、我々は「不良品」と呼ぶ。このように、我々は、確実性がないものを排除してしまう傾向がある。
 ところが、さっきの例で、80円の自動販売機でジュースが出てこない確率が10%だとすると、この自動販売機で10回ジュースを買えば、平均で1回はジュースが出てこないので、800円で9本のジュースが(平均的に)買えることになる。
 ところが、100円で確実にジュースが買える自動販売機で、9本のジュースを買えば900円である。そうすると、確実性のない80円の自動販売機も、決して「使えない」ものではないのではないか。
 実は、占いもこれによく似ている。占いは確実に当たるわけではないから、ジュースが出て来ないことがある自動販売機みたいなものである。しかし、だからといって、占いが使い物にならないというわけではない。はずれることがあるのを念頭に置いて、うまく使うことが出来れば、占いはかなり強力な武器になるはずである。
 さて、それではこういう確実性の薄いものをうまく使うにはどうすればいいのか、長くなりそうなので、また続きは別の日に書かなければならなさそうだが、1つの方法として、数多く利用して平均でもうけるという方法がある。例えば、先ほどの80円自動販売機で、ジュースを1本買おうとすれば、ジュースが出てこないことがあるが、もし、この自動販売機に80円を100回入れれば、ほぼ90本に近い数のジュースが手に入る。もっと数を増やせば、お金を入れた回数の90%に限りなく近くなり、約89円で1本のジュースが買える自動販売機と同じことになる。
 そう考えれば、占いが好きで、いろいろな占いをかたっぱしから試す人がいるが、あれは占いの使い方としては正しい方法なのかも知れない。

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・2000年2月29日(火)
 今日は400年に1度の日ということである。2000年問題で大丈夫だったと思ったら、ここにきていろいろとトラブルがあったみたいだ。今のところ私のパソコンは大丈夫みたいである。
 さて、このコーナーも軽い話で行こうと思っていたのだが、どうしてもこの話はしなければならないようだ。ということで、今日は非常に重たいまじめな話をする。
 新潟県警の特別監査については、いろいろなところから批判が出ているようである。今後は国家公安委員長の進退にまで発展するかも知れない。
 ところで、今回のように、監査とか、検査とかで、検査する側と受ける側が癒着して問題になったり、逆に検査する側が受ける側を脅迫したりする例は結構ある。今日は、どうしてこういう問題が生じるかについて考えてみたい。
 日本では、誰かが誰かを検査するというとき、検査する側と検査を受ける側の力関係は、圧倒的に検査する側が上である。例えば、日本で一番大きな検査組織である会計検査院をみてみよう。会計検査院は、「会計検査院法」という法律に沿って検査をするのだが、この法律の条文をすみからスミまで読んでみると、とんでもないことに気づく。
 この法律には、なんと、「検査報告にウソを書いてはいけない」とは一言も書かれていないのである。そんな感じだから、「検査を受ける者の人権を不当に侵害してはならない」とか「検査を受ける者の業務を不当に妨げてはならない」などという条文も、なくて当然といった状況である。つまりは、受験者に対してはやりたい放題なのである。
 これ以外の検査の法律や規則についても、状況は似たり寄ったりだろう。つまり、日本では、検査をする人間は、検査を受ける人間に対して絶対的に強い。少し極端な言い方をすれば「生かすも殺すも自由」な状態なのである。こんな状態だから、「きちんとしておけば検査を恐れる必要がない」というわけにはいかない。
 さて、そういう状況をふまえて、実際に検査をする側と受ける側が、それぞれの立場でどういうふうな行動をとるか考えてみよう。
 まず、検査を受ける側からすれば、これは相手に自分の首根っこを握られているわけだから、自分が生き延びるためには、相手の機嫌をとり、ゴマをすって、相手の情けを乞うしかないわけである。そうなると、必然的に、検査する側に忠誠を示し、何でも言うこと聞きますみたいになってしまうのは想像に難くない。それが、検査官にたいする個人的な供与に発展することは、むしろ当然といえる。
 次に、検査をする側からみてみよう。別に恨みが有るわけでもない相手を、「生かすも殺すも自由」にしていいからといって、「じゃあ、殺してしまえ」とは普通ならない。検査官もその例にもれないから、受験者に対して悪い感情を持たない限り、受験者に意地悪をすることは少ない。
 とはいえ、「生かすも殺すも自由」な状態で、何もせず生かして置くのも、何となくすっきりしない。というのは、1つは、
 「そんな特権を与えられて何もしないのはもったいない」という気持ち。
もう1つは
 「そういう役目を持っているのに、何もしないで生かして置いたんでは、役目をさぼったような気がする」という気持ちから来るのだろうと思う。
 そうすると、検査する側としては、多少受験者をいじめないと、精神的にすっきりしないわけである。そうすると、どうなるか。だいたい2つのパターンがあるのではないか。
 1.とにかく何かアラを見つけていじめる。
 2.検査とは別の所で相手をいじめたり、相手に何かを要求したりして、精神的バランスをとる。(要するに「何かよこせ」「何かしろ」になる)
 新潟県警の監察官は、このうち2.の方の心理が働いたのであろうと推測される。
 このように考えていくと、検査にあたっての、なれあいとか、利益供与とかいう不祥事は、検査官絶対優位という、言ってみれば不健全な人間関係の中で、検査官、受験者双方が精神的に不安定な状態に置かれるために起きる、と言ってもいいのではないだろうか。つまり、今の、検査官絶対優位の制度上では、人間である以上、なれあいとかの不祥事から逃れることは難しいのではないだろうか。
 役所や警察、銀行など公共性の高い組織が不祥事を起こすと、必ずと言っていいほど、監査体制の強化が叫ばれる。それは、監査する側の権限を強化し、検査側と受験側の力関係を、検査側に大きくシフトさせることになる。しかし、それは、かえって監査をやりにくくし、結果的に不祥事の再発を招く。それによってさらに検査の権限が強化され・・・・・という悪循環が続いているのではないだろうか。
 さて、ここまで書いたら「検査する側が、ちゃんと「正しいことは正しい、間違っていることは間違い」、というふうにきちんと検査すればいいじゃないか」という声が聞こえてきそうである。実は、そういうふうに、検査項目と検査基準がはっきりしている検査では、今まで書いたような事態にはなりにくい。お互いにルールがはっきりしているので、検査側も、基準内のものをダメとは言えないから、「生かすも殺すも自由」にはなりにくい。
 ところが、会計検査をはじめとする多くの検査は、何を検査するか、どういう基準で検査するかは、検査側の裁量に任されている。このため、何が正しくて、何が間違いなのかは、事実上検査官の胸先三寸で決まる。また、検査官にしても、自分の検査が正しいかどうか不安になるだろうから、検査側にとっても、それが必ずしもいいこととは限らない。
 このように考えていくと、今回の新潟県警の不祥事のようなことは、日本の検査制度自体に問題があると考えた方がいいのではないだろうか。特に
 −検査の基準を明確にすること−
 −検査側と受験側の立場を、できるだけ対等にすること−
の2点について、大きく改善する必要があるのではないだろうか。

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