五、いくつかのエピソード


この項では當寺にまつわるいろいろな話をエビソードとして紹介します。

その一 忠茂公に殉死あり

當寺の過去帳に次のような記録があります。

寛永元年八月四日 忠茂公逝去於矢作館
同殉死 岸川六左衛門
山口太郎兵衛
萩原覚太夫
松田五郎介
高麗人瀧本淨右エ衛門
山木氏

上の方々について戒名を省略します。
殉死は間もなく幕府の禁止するところとなるのですが、この当時は戦国時代が終わってすぐのころで、まだ殺伐たる気分が残っていたと推察されます。

この瀧本氏について過去帳には、とくに「世人の傳語を記す」と断ったうえで次のように記しています。

「龍本淨右エ門、忠茂公に従って日本に至る。
吹上村に居住す。
碁を能(よく)し能く敵するものなし。
常に数人の碁客と交接す。
一日数人と団欒、碁を囲む。
忠茂公の訃至る寛永元年八月なり。
淨右エ門簡を披いて一読流涙
。卒に起きて一室に入る。
数人謂う彼尿(いばり)に起つと。
頃あって至らず数人怪て障子を開は右手の氷鋒喉を貫いて伏す。
嗚呼その忠義志操潔白賞す可し。」

この記事は事後の言い伝えを記録した形になっています。
できるだけ原文に忠実に写しましたので お分かりにくいかと思い、不足分を補いながら以下大意をご説明します。

この事件は矢作における忠茂の逝去のあと、その計報がおそらくは飛脚によって鹿島に届けられたのが寛永元年八月のことであった。

件の瀧本氏は秀吉の朝鮮侵略(文録慶長の役)に従軍した忠茂につき従って来た被の国の人であって高津原吹上に住んでいた。
かくて彼は武士の身分を与えられ鹿島の式士たちと交流があり、とくに碁の強いことで知られていた。
忠茂の訃報が到着したその日も数人の客とともに碁を楽しんでいたが手紙を見るや涙して別室に入った。
客たちは「おおかた小便だろう」と話し合っていたが、いつまでも出て来ないので障子を開けてみたらすでに喉を突いて死んでいた。
その忠義の心と事に臨んでの潔さは誉められるに値する。

ここで、想像を逞しくすることをご容赦下さい。
文録慶長の役に際して秀吉の軍につき従ってきた朝鮮の人々については、有田焼や薩摩焼の祖となった陶工たちのことはよく知られていますが、そのような渡来人が鹿島にも在ったわけです。

思うに朝鮮半島と我が国は日韓併合以来の不幸を経て今はぎくしゃくしているのですが、もともとは先進国中国の文物は朝鮮半島を経て渡って戒が国に来たわけでして、古来日本人は中国により近い朝鮮半島の国土や人々や文化にロマンと憧憬を感じていたはずです。

瀧本氏はそこから来た珍しい客人として丁重にかつ暖かく処遇されたし、人の訪れも多かったと思 われます。
高津原の高台から西の空を見てふるさとを思ぶ望郷の思いはありながらも、彼には、満足すべき日常とそのような場を与えてくれた忠茂への感謝があったと考えられます。
この日の自刃はそんな彼の心の現れであり、また、「苗字帯刀という式士の身分を与えられた外国人」として彼は誰よりも「日本人の武士」であろうとしたのではないでしょうか。

六人の殉元者の碑はお霊屋の左前に忠茂公に仕えるが如く建っています。
また、本堂にある忠茂公の位牌の近くに大きめの黒い位牌がありますが、そこには淨右エ衛門の戒名「古仙道鏡信士」の文字を見ることができます。

その二 月舟さんの寺号額

 

 舟

 書

 □

寺禅智泰

上のように書かれた寺号額をすでに御覧になっていると存じますが、今般この寺号額も修理相成って装い新たに本堂の正面に上がりました。

左側に『月舟』の署名がありますが、この方は江戸時代に宗門で盛んに行われた曹洞宗復古運動の草分けとしてそうとう曹洞宗の歴史に名をとどめているひとであり、大変な能書家として知られた和尚様です。

和尚は武雄の武士の家に生まれ、幼くして同地の円応寺にて得度します。
長じて行脚(修行の旅)に出て名僧として名をあげ、やがて加賀(石川県)の大乗寺の住持となります。

ここで彼は僧堂の『清規』(しんぎ=修行僧の守るべき決まり・約束事)が乱れていたのをあらためて、曹洞宗が始まったころ(鎌倉時代の)のそれにもどすという運動を繰り広げます。
その功績をもって彼は『復古月舟』と尊敬され、また、曹洞宗の第一人者と自負していました。

詳しいことは省きますが、多くの修行者を薫陶して任を終えた彼は、やがて宇治の禅定寺を興し、さらに京郡の元光庵に客僧として滞在したのち、禅定寺にもどって七十九才の生涯を閉じます。

江戸時代の曹洞宗にあって月舟和向は第一級の善知識であり、厳しい禅の実践者として知られていました。
また、同時に当代まれにみる能筆家で流行の竹筆を用いた雄渾な書を書きました。
求められるに応じて残した書は各地に数多く残っており、また、扁額も数十を数えるそうです。

書についてはおもしろい話が残っています。

彼が宇治の禅定寺に在ったとき、休息中の彼の腕をつかむものがありました。
「誰だ」との問いに
「私は天狗である。
和尚の書があまりに素晴らしいのでこうして右手をさわっている。」
と答えます。

「さわるくらいならどうぞ・・・」
といったかどうかは知りませんが、ややあって天狗はこういうのです。
『腕をさわらせて頂いたお礼として、和尚の文字があるところはこの天狗が身をもって守ってやる』
と・・・。
このことがあって以来月舟和尚の文字は魔除けや火防になるといわれ、方々の寺から寺号額が山号頒の揮毫を頼まれたと伝えられます。

彼が書を書くときは上手下手を一切顧みず、書き直すようなことは絶対にしなかったそうです。
また、月舟和尚の弟子の卍山(まんざん)和尚も師にひけを取らない名僧でしたが、この人の弁として次のような言葉があります。

いわく
「師匠が大きい字をたくさん書いた。
私まで大きい字を書いては紙が世の中からなくなってしまう。
だから、私は小さい字を書く・・・」
と。

ですから月舟和尚の字は大きいものが残り、卍山和尚の字は細字が残っているそうです。

月舟和尚の寺号額はこの泰智寺と和尚の出身寺である円応寺のものが佐賀県では知られています。

ときには、扁額を見上げて和尚の気宇壮大にあやかりたいものです。

 

また余談です。
本堂正面に金色の見慣れない文字が書いてありますが、じつは『三千佛』と書いてあります。
そして、余白のところに黒い小さな文字で三千の仏の名前が書かれています。
これも大変珍しい貴重なものらしいので付言します。

その三 名僧知識

宗門の用語として『知識』といえぼ学問や徳目・実践に優れた僧侶を指す言葉で、つまり「名僧」と同義語です。
泰智寺の住職は御開山から先住森文雄師に至るまでニ十五人を数えます。
いずれ劣らぬ知識であられたはずですが、ここではとくにお二人を取り上げてご紹介します。

十二世 萬仭道坦大和尚

十七世紀の末、月舟和尚がなくなられたその数年後に大村方の池田家に男子が誕生します。
のちの萬仭和尚ですが、かくて幼くして泰智寺に入り、十一世大霖潭龍和尚について得度。
十数年の勉学ののち月舟和尚ゆかりの大乗寺に修行の場を求め当時の住職大機行林和尚に師事し、やがてその法を継ぐことになります。
その後さまざまな求道の遍歴がありましたが、とくに三河の万幅寺に請われてその開山となったことが知られています。
そして、全国さまざまな寺の住織を務めたうえで、四十七才のとき大霖潭龍和尚の示寂にともない請いを受けて泰智寺に帰り十二代住織に任じました。

以後十年ほど泰智寺住織にとどまりますが、やがて万福寺にもどり再びここの住職となり各地の寺で活躍した後、万福寺にて示寂します。
世寿七十八才。

以上簡単に来歴を記しましたが活躍の舞合となった寺はとにかく沢山あって、その数を追っていけば頭が痛くなるほどでとうていこの小冊子に尽くすことができません。

月舟和尚はどちらかというと実践の人であり、ものを著すことも自分の言を記録されることも嫌いました。
萬仭和尚はその反対の、今風にいえば学究肌で曹洞宗宗学の学問的研究に情熱を傾けた人でした。
宗門に残されている大きい著作だけで二十余が数えられます。

それらについてここで述べるほどの力量を持ちませんのでおおむね遠慮させていただきますが、生涯にわたっての思索のテーマは『禅戒思想』であり、師子相伝とう我が宗門における『嗣法』の正しいあり方を原典に依拠して追求し、また、後世に警鐘を発したものといえましょう。

数ある著作の中で、當寺には『永渓山典座寮指南』の原本が残されていますが、この全文は宗門から出版された『曹洞宗全書』に収録されています。

えいけいざんてんぞりょうしなん・・・泰智寺の台所・料理係の僧に年間の活動を指導された書物です。
以下、そのごく一部を紹介します。

一、明日は徳雲院殿初月忌なり。
家中(殿様の家来のこと)参詣あり。
ご名代あり。
満散後内外大掃除なり。
庫裡にても霊膳等の用意恵あるべし。
二汁五菜なり。

一、山芋ごぼう等来たらば調菜に用い、余りあらば□□中に取蔵べし。
客用にすべし。

一、典座寮(台所のこと)に火鉢入るべからす。
行灯(あんどん)も無用にて入るべからず。
冬の間は上段の間に火鉢を置き開枕(寝る時間)まで安座すぺし。

一、十四日は味僧仕込みなり。
上味噌大豆三斗なり。
五合麹四合塩なり。
打飯味噌は醤油三斗小糠子三斗大豆三斗なり。
土用のうちに桶に詰め置き・・・・

一、除夜の薬石は二菜なり。
晩間夜参の茶菓子は牡丹餅を小盆に盛り茶室に出すなり。
明日元朝の用意し茶堂廊下も板敷き等晩間に掃除すべし。

ほんの少しの抜粋で恐縮ですが、あとはご想像にお任せします。
なお、和尚の筆跡は山門に向 かって左側、原家墓地の「法華会塔」に残されています。

月舟和尚と萬仭和尚は共に江戸時代の佐賀が生んだ宗門高僧の双壁というべく、その足跡は赫々として曹洞宗史に刻まれています。

 

寓仭さんの「池田家」はその後連綿として今日まで続いていますが、その直系の子係が石木津在住の池田貞雄様であることも併せてご紹介しておきます。

二十三世 大安覺城大和尚

名僧知識、お二人目を紹介します。
ふたむかしほど前までは泰智寺といえば、ある程度年配の老僧ならよく口にされていたのが
「ああそうか、覺城さんの・・・」
という言葉でしたし、現在でも体躯の堂々としたこの和尚様のことを記憶にとどめている檀家さんも居られるはずです。

亡くなってから五十年余。先年、中尾の興善院と當寺にてその五十年忌が営なまれましたが、今はさすがにその風貌や学織が人の話題にのぼることも少なくなりました。

私の父も、祖父が早く亡くなったという事情もあって若い頃には忘れられない恩義を受けたものら しく、問わずがたりに老師のことを語ることが多かったのです。

いろいろな人の話を総合して、覺城老師が九州一円に名前を知られていた名僧であったこと、漢詩の達人であって「白水」と号されて多くの漢詩を残されていることや本堂でのお姿が立派であったこと、私たちの言葉でいう法式(ほっしき=法要に関する約束事)等の宗門の教養に造詣が深かったことなど、紹介かたがたここに取り上げることにしました。

 

さて、覺城和尚は白石町牛屋の「森氏」に生を受け、幼くして牛屋の医王寺の住織光山覺明師のもとに入り得度、間もなくその養子となります。

長じて明治十八年、曹洞宗立大學林(現駒沢大学)を卒業。
その後大本山總持寺および大本山永平寺にて安居修行ののち明治二十一年、泰智寺二十三代目の住織となります。

和尚が當寺に入られるいきさつについては次のような話が残っています。

修行を終えられて間もなくのころと思いますが、医王寺にて『授戒会』(お授戒ということもある)という大きな行事があったのです。
たまたまそこに鹿島藩最後の藩主であり明治政府の元薫のお一人であった鍋島直彬公が臨席されていた。
そうして、覺城和尚の若年ながら威風堂々としたさまが目に留まり大変感心されたそうですが、結局「是非に・・・」と請うて泰智寺の住職に迎えられた、と聞いています。

当然後継者と考えられているはずの愛弟子をお師匠様がどんな気持ちで送られたか、いまは知る由もありませんが、殿様のご威光がまだまだ健在であったころの物語と思います。

その後、よく知られているように野畠の松本家から娶られますが、今風にいえぼ「肝っ玉母さん」として慕われたこの奥様のことも部落の年配の方は懐かしく思い出されることでしょう。

・・・お寺の塀のそばに大きなムクの木があって登ったり実をちぎったりして遊んでいたが、そこを「おさかさん」に見つかると竹ざおでどやされていた。
しかし、追われて帰ろうとすると、必ず「わいたち持っとかい」といってお茶ごのお菓子などくれたものだった・・・とは昔のいたずら坊主の話です。

また、年朝必ず松岡神社におまいりをされていたという話も聞きますが、親分肌で豪快それでいて心の暖かい信仰心の厚い人だった・・・というイメージで実像に近いでしょうか。

右の写真は古書の整理中に偶然見つけたものですが、「出征」する前二つの梵鐘を見送られている覺城和尚の姿です。
貴重な写真と思いますので、ここに載せました。

お二人は実子には恵まれませんでしたが、多くの人材を育てられました。
ここには、お弟子であった方、直接のお弟子ではなかったが和尚の薫陶を支け思沢にあずかった方を厳密に区別しないで掲げました。(敬称を省きます)

森 鉄城 幽照寺住職  
文殊覺頴 永寿寺住職 駒沢大学卒 朝鮮総督府
中島覺之 泰智寺住職 東大法学部卒 内務省高等官 台湾総骨府副知事
光吉彦虎 天祐寺住職 駒沢大学卒 元佐賀県曹洞宗宗務所長
光山覺敏 興善院住職  
松本實乗 駒沢大学卒 中学校教頭
松本秀雄 見性寺住職  
川原覺範 東大法学部卒 関西電力社長

覺城和尚の「光山家」は浜町の多々良家より養子に入られた光山覺敏老師によって継承され、興院住織光山良明師が現在のご当主としてお家を維持されています。

 

老師が鹿島の名士たちと交わされた漢詩や、法要等で語られた法語がすばらしい達筆で書かれて當寺に数多く残されています。