やがて帰国した後に、当時本藩の主となっていた鍋島勝茂は「お家を安泰に」導いたことの功績を認めて鹿島二万石を分け与え、鹿島藩を開くことを許すのです。
頒地はあわせて二万五千石。
その後転変を経て忠茂は娩年に矢作に在り、そこで亡くなります。
遣骨は矢作の円通寺に葬られ、のちに佐賀の高伝寺に分骨されます。
前置きが長くなりましたが、當寺の起源は忠茂が現在地に寺を建立して正室の戒名にちなみ『祇園山隆心寺』と寺号を定めた元和八年(一六二二年)に遡ります。
その後、ほどなくして寺号が今のように『永渓山泰智寺』と改められますが、その理由は、この寺がご正室の菩提のためだけにあるのではなく鹿島鍋島家の菩提寺としてあるべきだということでした。
(記録には「忠茂公の素意に非ず」とあります。)
寺号の由来は、父である鍋島直茂の我名「日豊宗智大居士」母の戒名「陽泰院殿・・・」から、それぞれ一字をいただいたものと伝えられます。
ところが、まだ創成期というべきときに藩を根底から揺るがす大事件が起こります。
二代正茂が本藩の主鍋島勝茂と鹿島藩の後継間題をめぐって紛争を起こすのです。
その経過は省略しますが、この結果、鹿島藩は一且断絶。
本藩より送られた直朝によって再興という手続きが踏まれかろうじて藩(藩主と家臣団)の存続が許されます。
この事件で正茂は関東に奔り矢作五千石を相続して旗本となるため、鹿島藩の頒地は二万石(実高八千石といわれる)になってしまいます。
一方、正茂の子係は「餅の木鍋島家」と呼ばれ、大身の旗本として江戸町奉行など幕政に重きをなしつつ幕末まで続きます。
久保山に新しく普明寺が建てられ菩提寺とされるのはこの事件と無関係ではないでしょう。
また、直朝によって忠茂の遺骨は高伝寺より當寺に移され、以来當寺開基として祭られています。
「お霊屋」と称して鍋島家墓碑群の中でお堂の中に墓がありますが、これが忠茂の墓です。
しかしながらこの不幸な事件はともかく、鹿島においては忠茂を初代とあがめ、泰智寺もまた忠茂の菩提寺として鍋島家より十分丁重に処遇されてきました。
『鹿島藩日記』には
「泰智寺に金子(きんす)くださる」
「○○院様御命日に付き両御寺(普明寺と泰智寺のこと)に仰代参・・・」
という類の記録が散見されます。
それから間もなくのこと、慶安三年(一六五○年)浜町に大火が起こり一帯の建物がことごとく灰塵に帰すという災害が起こり泰智寺もまた一宇を残さず全焼したと伝えられます。
本堂が再建されたのは、それからおよそ九十年の後、寛保二年(一七四二年)のことでした。
當寺に残された記録に
「十一代潭龍和尚の時本堂造立あり。古来の瓦屋は修補難渋のゆえ茅葺になる。」
「本堂造建の銀米材木縄竹は嘉嶋より出ず。當役相良三郎兵衛なり。」
とあります。
これにより、鹿島藩が苦しい財政の中から必要な資金と物資を捻出したことや袒当奉行が相良某というお侍であったこと、創建当時の本堂が瓦葺きであったことなどが知られますが、今般の改修により、もともとの瓦葺きにもどったということに因縁めいたものも感じられます。
そんなわけで、忠茂の遺骨は當寺に葬られていますが、三代直朝以来、歴代藩主の遺骨は普明寺に達髪が當寺に祭られることになりました。
私見ですが、鹿島のお侍方の多くが「殿様と一緒に眠るのは恐れ多い」として普明寺の方でなく菩提寺として「次席」となった泰智寺に自らの墓所を求めたのではないかと考えています。
『殿様の寺でありお侍の寺』という當寺の性格の由来です。
もちろん、いまは、殿様もお侍も庶民もみな同じ・・・民主主義の時代です。
この項は主として當寺に残されている