なお、薬師如来に観音菩薩と勢至菩薩を配することや大日如来に日光菩薩と月光菩薩を配するというのも三尊仏の決まったかたちです。
お釈迦様については知られているところですから、ここではお二人の『菩薩』についてご紹介します。
菩薩は要するに「未完成の仏」でして、いずれは仏(すなわち如来)になる方ですが『上求菩提下化衆生』(うえに菩提を求め、したに衆生を化す)といい、自らのお悟りが成就するまえに煩悩に苦しんでいる衆生を救済するという願いを持つ優しい仏様なのです。
そうして、如来が薄い衣をまとっただけの極めて簡素な形をしていられるのに対して、なぜか冠やネックレスや碗輪などで着飾っておられるのも菩薩の特徴です。
さて文殊菩薩はお釈迦様の左に(つまり向かって右に)侍し、唐獅子に乗っておられます。
右手の知剣が示すように、また「三人寄れば・・・」というように、この仏は真理を見極めるための般若(知恵)の徳をお持ちです。
普賢菩薩は、お釈迦様の右に白像に乗って侍して居られます。
延命の徳をお持ちであり、また、女人成仏の証人になったという法華経における故事をもって知られ、美しい女人の姿をしていることが多いのです。
女性も成仏できる・・・この仏様が運んでこられたグッド・ニュースです。
次に
インドの北、ヒマラヤのふもとに生まれた仏教は西北インド経由で東アジアに至った大乗仏教と、セイロン経由で東南アジアに広がった小乗仏教に別れます。
小乗仏教においては「おのれ一人の解脱」をもってそれでよしと考え、悟りを他に及ばすことを重視しません。
ですから「小乗」なのですが、そこにおいて高い悟りに達して修行を完成した有徳の僧は覚者として世人から供養を受けるに足るという意味で『アラハン』と呼ばれ、民衆の尊敬を受けました。
この意味でアラハンはもともと不持定多数の高い悟りを得た修業者をさす言葉なのですが、このうちとくに十六人が選ばれて固有名詞をつけて尊崇を受けるようになりました。
これが大乗仏教の世界(中国や朝鮮)に取り入れられて、いつか漢字で『阿羅漢』さらに『羅漢』と表現されるようになったのです。
ひらがなで恐縮ですが、十六人の尊者の名前を紹介します。
胡粉蒔絵という豪華な彩色ながら時如三十年代に初めて見たころは、すでに相当落剥がすすんでいました。
そうして、昭和三十七年の鹿島を襲った集中表雨による大災害を経てからは年を追って傷みが激しくなり、納骨堂建設に伴ってお堂が壊れてからは、手足がなくなったりお顔が取れたりという痛ましいお姿で山門の二階に居られました。
この羅漢さんを修復しようという動きが、亡くなった母を中心として帰人会の有志の方々から始まったのはまだ記憶に新しいところです。
前婦人会会長の故田中哲子様や現帰人会会長納富砂子様をはじめ、ご婦人方の活躍によって各方面から浄財が寄せられおおよそ三百方円という資金を投じて、修復相成ったという次第でした。
仏師は乙丸在住の宮崎秀次さん(故人)でした。
さらに、當寺の馬場市長様や関係方面のご尽カによって昭知六十一年に鹿島市の文化財に指定となり、本堂の西側の間に安置されたのです。
感謝とともに思い出話、以上の通りです。
なお、残された頂相像(禅僧の座像)の体内から発見された麻布に左のような文字が判読されました。
このことから當寺の羅漢さんについて、この人(十四代心岩釣月如尚と見られる)が発願の主であり、江戸時代後期に京郡の大和屋清兵衛の工房で作られたものであると判断するのは妥当ではありますが、いま一つ確証にかけるといわねばなりません。
明和八年□月十一日着寺
錦上町通り佛工職
西脇氏 大和屋清兵衛作
現住十四世釣月叟 新添
余談めきますが、羅漢さんが禅宗寺院に限って祭られているのは、その超俗・孤高というキャラクターが禅宗の性格に合いとくに好まれるからです。