一、曹洞宗と泰智寺


私たちの宗派はしばしば「ソードーシュウ」と呼ばれていますが、正しくは「そうとうしゅう」と読みます。
その名前は「曹渓山大鑑慧能」(中国禅宗六祖)と「洞山良价」(中国曹洞宗の祖)に由来すると伝えられます。
もともと宗祖道元禅帥は宗派を立てることを禁じられたのでしたが、他宗と区別するため事実上不便ということもあり、いつからかこの宗名を用いるようになったようです。

曹洞宗の信仰の根幹となるのは道元禅師が入宋されて、天童山の知浄禅師から伝えられた釈迦相伝の仏法(お釈迦様のお悟りそのもの)を受け継ぎ伝えていくということであり、座禅をすることをもっとも大切な修行(只管打座:ひたすらにすわる)とするという主張です。
また、その特徴のひとつは二つの本山(大本山永平寺と大本山總持寺)が同格のものとして尊崇されているということであり、ほかにこのような例はみられません。

新しい星根の棟に輝いている双つの紋は、向かって右が「笹りんどう」(永平寺の仰紋)左が「五七のきり」(總持寺の仰紋)であり、これによって當寺がこの二大寺を両本山と仰ぐ曹洞宗に所属する寺であることを示しています。

永平寺を開かれた道元禅師はどららかというと孤高を守り宗派を広めることをなさらなかったのですが、總持寺のご開山である瑩山禅師のご努力によって曹洞宗は全国に発展しました。
今日の隆盛はこの二禅師の広大なる意思によるとして、私たらはお二人をともに崇敬しています。

さて總持寺には多くの末寺がありますが、そのひとつに山口市の瑠璃光寺(美しい五重の塔があり全国的に知られている)があります。

泰智寺はこのお寺の末寺てあり、(ですから)總持寺の孫に当たる末寺ということになります。
さらに、當寺の末寺として浅浦の元光寺、花木庭の見性寺、高津原の幽照寺の三ケ寺があります。
元光寺は藤津郡を領した嬉野家の菩提寺として建てられ、見性寺と幽照寺は鹿島藩三代藩主直朝公ご正室祐徳院殿の二人の子供の菩提のために建てられたものです。
大本山から本寺、本寺から末寺、末寺からそのまた末寺、というようなこのピラミッド型の仕組みは江戸時代に幕府の宗門支配の便宜上構成(場合によっては再構成)されたものと思われます。

禅宗には臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の三派がありますが、當寺が曹洞家の總持寺の系統のお寺であることがお分かりいただけたでしょうか。

中国禅宗の始祖として仰がれる達座(だるま)大師はインドから来て長江(場子江)をわたり、崇山の松林寺にて『面壁九年』(九年座禅しつづけた)、ために足がなくなったと伝えられます。

そこに、慧可(えか)が来て入門を求めるが達磨は取り合わない。
意を決した慧可は雪の降るタベに自分の手を肘から切り落としておのれの道心を示し、ついに入門を許されるという有名な話があります。

中国に禅宗が根づく頃(紀元五百年前後)の物語として脚色を経たドラマと思われますが、こうして中国で禅宗は発展してゆき、達磨から散えて六人目に大鑑慧能(だいかんえのう)が出現します。

その慧能の糸統から曹洞宗と臨済宗が生まれるわけですが、やがて時代が下って、宋時代(紀元千年前後)あいついで海を渡った栄西によって臨済宗が、道元によって曹洞宗が我が国にもたらされることになります。
黄檗宗は、ずっと遅れて江戸持代に隠元(いんげん豆の由来)によって伝えられます。
黄檗宗は中国の福建省で発展し華僑によって伝えられた宗派であるため、中国における当時の姿を色濃くとどめています。

「禅宗は中国で生まれた仏教である」という人もあるくらいで、中国に根づいてその文化に染まり我が国に渡来して以来八百年、その間に日本人の心情に合わせて変わってきてもいるわけです。
しかしそれはそれとして、達磨から道元によって伝えられた『釈迦相伝の仏法』をそのままに正法として尊崇する・・・、これが曹洞宗の信仰といえるでしょう。