この付近は近くの松浦川の川底が低く、しかも川の左岸には固い岩山が迫っていて、用水路が掘れませんでした。
そのために、昔はすぐ目の前に川があるのに水が引けず、水田を作ることができませんでした。
少し川を下れば、川の左岸には広い土地が開けているのに、水が引けないばかりに水田にできなかったのです。
「ここに水が引けたら、米が作れるのになあ。
腹一杯米の飯を食えるようになりたい。」
これは人々の心からの願いでした。
ですから、何とかこの広い土地に水を引く方法がないものかと、いつも考えていました。
そこで人々は、よい政治を行って評判の高かった当時の土地の役人、中野神右衛門に相談しました。
神右衛門は人々の苦労を思いやり、佐賀藩では水を治めることについて右に出るものがないほど有名だった成富兵庫茂安に話をしました。
茂安は、川の右岸近くまで来ていた用水路を川の土手まで引き、いったん川底を通して再び地上にあがる、管のような仕組みを作ればよい、と教えました。
これは左岸が右岸よりも少し低いことに目を付けた、今で言うサイフォン原理の利用で、大変優れた考え方でした。
神右衛門は多くの人々を各地(武雄・武雄市若木町川古・山代・有田)から集め、早速工事に取りかかりました。
桶の底をくり抜いたものを継ぎ合わせて水を通す管にして、それを川底に沈め、大きな石で流されないように支えました。
用水路も掘りました。
しかもこれらの作業は、農作業の手が空く冬に行われました。
冷たい川にはいり、凍えるようにして工事をしたので、大変な苦労でした。
また、大水の度にこの管とそれを支える石も流されたので、修理も大変で、そのための小屋がわざわざ造られていたと言われています。
この工事のおかげで、川の左岸に水が揚がるようになりました。
水が足りなくて、なかなか田が作れなかった桃川でも米が沢山採れるようになり、人々は心から喜び合いました。
今は、桶を継ぎ合わせた管とそれを支える石は、鉄のパイプとコンクリートに変わりました。
しかし、電気の力などを使わないで、自然の力だけで水を揚げるというアイデアはそのまま生かされています。
そして400年近くも経った現在でも桃川には美しい田圃(70ヘクタール)が広がっているのです。
毎年、春、田植え前には農家みんなで馬の頭のまわりや管の中の掃除をします。
桃川の人々は、現在でもこの成富兵庫茂安と中野神右衛門の二人に対し、年に1-2回(1回の年と2回の年がある)祭りを行い、感謝の気持ちを表しています。