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不動明王(ふどうみょうおう) |
いわずとしれた、明王達の筆頭格にして最強の明王です。
つまり、大工に於ける棟梁、咸臨丸に於ける勝海舟といった所でしょうか。 こういう意味のわからない前フリは、無駄話への予兆です。 明王とは全く関係ないので、必要のない方は飛ばしてお読み下さい。 さて、棟梁といえば周知の如く、大工のお頭のことですね。
数多のリーダーの中でも、棟梁は欠いてはならない存在なのです。
さて、その重要性と対に挙げたのが咸臨丸に於ける勝海舟です。
まずはご存じ無い方もおられるかもしれませんので、咸臨丸についてざっとお話します。
だがしかし実際のところ、言うほどスムーズな航海ではなかったようです。
さて、この咸臨丸ですが、その後は小笠原諸島の測量や、老朽化後はエンジンも外され徳川艦隊に編入させられたり、時化(シケ)で漂着した所を新政府軍に没収されたり、波瀾万丈な人生を送っています。
ちなみに、当の勝海舟、船酔いを熱病だったと言い訳してみたり、先のブルック大尉からは「まったくものを知らない士官」と揶揄されたり、さらにはサンフランシスコ入港の際に提督の木村司令官の旗ではなく、自分の旗を上げると駄々をこね、そうかと思えば、帰途に際して別行動でワシントンへ行くはずだった木村司令官に「自分一人で艦を指揮するのは心もとないから、行かないで。」とワシントン行きを断念させるなど、我が儘の極み。
と、勝海舟は完全無欠のダメ男(関係者の方ゴメンナサイ)だったのですが、福沢諭吉は流石二期連続壱万円札だけあって立派でした。
余談ついでに、もうひとつ福沢諭吉と勝海舟の逸話をば。 福沢諭吉にはかねてから爵位授与の打診がありました。
それにひきかえ件の勝海舟さん、子爵授与の話に「五尺に足りぬ四尺なりけり」と言って意地を張り、結局伯爵を授与させました。
さあ、貴方は信念を貫き通す諭吉タイプ?、はたまた我を貫き通す海舟タイプ?
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不動明王の梵名アシャラナータは、ヒンドゥ教シヴァ神の異名ですが、仏教においては大日如来の憤怒身(教令輪身、きょうりょうりんじん)とされ、明王の最高位に位置づけられます。
不動明王は、最初「不動使者」「不動如来使」と、大日如来の使いとして記されますが、「大日経」巻二の注釈「大日経疏」巻第九において「不動明王」と初出します。
さて大人気の不動明王ですが、その起源はインドにあり、中国で展開したものでありますが、インドでの図像の作例確認されておらず、中国では唐代(八世紀頃)の作例が二、三知られるだけで、その信仰と造像は日本で最も盛行したと考えられます。
そんな日本での人気の高いお不動様の図像展開は、大きく二期に分けられます。
円心のような立派な方に倣うのは、自己を高める意味でも非常に上策です。
不動明王に話を戻しますと、上記の二童子の代わりに、蓮華童子を加えた三童子、八大、三十六大童子を配するものもあります。
以上、経軌の上でも、見た目の格好良さでも魅力的な、不動明王様でした。 |
不動八大童子 | |||||||||||
先に挙げた、不動明王の眷属の八大童子です。
高野山金剛峰寺の八大童子像があまりに格好いいので、それを参考に初の絵付きで紹介します。
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八大童子には、文殊八大童子というものもあります。 |
降三世明王(ごうざんぜみょうおう) |
数ある明王たちの中で、抜群に格好いいのが彼、降三世明王です。
降三世とは、サンスクリット語でトライローキヤヴィジャヤ"Trailokyarijaya"「三つの世界を降伏せしめる者」の意で、吽迦羅金剛(うんからこんごう)、忿怒月黶尊(ふんぬがつあつそん)、孫婆明王、勝三世明王ともいわれます。
あれは〜・・・、ヒンドゥ教の時代じゃったぁ〜・・・
この明王は、金剛頂経ではきわめて高い位に位置し、金剛薩たの忿怒身とされます。
像容は、通常三面八臂であらわされ、正面三目、左第二手に五鈷鈴次手弓、第四手に索、右第二手に五鈷杵、第三手に箭、第四手に剣をとり、左足で大自在天、右足で烏摩后を踏みます。
「正しい降三世印の結び方講座〜ワー、パチパチ(拍手まばら)」
さあ、テレビの前のよい子たちも、強さの秘密、降三世印を「街で嫌なヤツに出くわした時」「無言の批判をしたい時」「いつも負かされている近所の犬と決闘する時」などに活用しよう!
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軍荼利明王(ぐんだりみょうおう) |
五大明王の南方を司る尊で、早くも7世紀中頃、阿地瞿多(あじくた)訳の陀羅尼集経に説かれています。
軍荼利とはサンスクリット語の「クンダリー」"Kundli"の音写で、「とぐろを巻くもの」という意味です。
他方で、軍荼利とは不死の妙薬である甘露を入れる瓶の意味ともされ、後世の密教教学では「仏部、甘露軍荼利」「蓮華部、蓮華軍荼利」「金剛部、金剛軍荼利」と軍荼利を三種に分ける事もあります。
軍荼利明王は、種々の障碍(しょうがい。障害)を除くとされ、観喜天(かんぎてん。古代インド神話のガネーシャ。もとは仏道修行を妨害する鬼神)を支配する者と考えられています。 像容としては二面四臂、四面四臂など異像様々ですが、多くは一面八臂にあらわされます。
軍荼利明王は、大咲明王、軍荼利夜叉(やしゃ)とも呼ばれます。
ところで、「ぐんだり」と聞いて「くんだり」という言葉を思い出した方もおられるかと思います。
こういう下らない(おっ、くんだらない!)事ばかり書いて、仏像という高尚なものの品位を著しく下落させている私ですが、中学生の時分、このくだらなさが個性的でアバンギャルドとの担任の評価をいただいて、全校弁論大会に出場した事があります。
まさに四面楚歌。いわく生き地獄。 知的で幸福に満ちた文章に飽きた、または知性の片鱗も見られない稚拙な表現を前衛的であると好意的に解釈してしまった徹夜明けの編集者の方々、執筆依頼なら相談に乗りますゾ。(売り上げを激減させる事を保証します。) |
大威徳明王(だいいとくみょうおう) |
大威徳明王は、サンスクリット語でヤマーンタカ"Yamantaka"といい、死の神ヤマ(夜摩)と終わりをもたらす者「アンタカ」の合成語で、「死の神ヤマを倒す者」の意で降閻魔尊(ごうえんまそん)と呼ばれます。
世間一切の悪毒竜を調伏する「大威徳」ある「明王」として信仰されます。 また6本足を持つ事から六足尊といわれることもあります。 経軌では、六面六臂六足で水牛に乗るのが通例で、その水牛は、立ったもの、座ったもの、走行するものなどがあり、明王自身もその背に立ち上がり弓を構えるものもあります。
図像について、六臂の印相持物は経軌により異なりますが、特色としては、左右第一手を胸前で組み合わせ、中指を立て合わせる壇陀印(だんだいん、壇拏印・だんどいん、とも)を結ぶ、あるいは弓矢をとる事があります。 五大明王としては西方に配され、独尊としての造像は奈良の唐招提寺にあり、その信仰は、牛に座することから、後に農耕と結びつくようにもなります。
話は変わりますが、先日江戸のカラクリ博覧会なる展示会へ行って来ました。
そこで、彼の後年の話はあまり聞かないなぁと思い調べてみました。 エレキテル発明後の源内は結構豊かだったのですが、彼の細工品の下請けをしていた弥七という男が、源内の名を語りエレキテル製造の資金を集めるという事件を起こしてからは、評判は地に墜ち、生活は困窮してきました。
その後、誤解であるとわかり、源内は切腹しようとしますが、門人達が止めている間に役人が来てしまい、そのまま牢獄へと送られ、獄中、破傷風で死亡しました。
如何に天才平賀源内であれども、大威徳の加護なくして、夜摩の誘惑から逃れる事はできなかったようです。 |
金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう) |
サンスクリット語で「ヴァジュラヤクシャ」(金剛杵の威力を持つ夜叉の意)といい、五大明王の一尊に挙げられます。
五大明王のうち唯一金剛の名を冠する所から金剛薩たとの結びつきが強く、第一手左右に金剛杵と金剛鈴を持つ姿であらわされます。 また金剛夜叉明王の真言を「オーン ヴァジュラヤクシャ フーン」といい、これが金剛界十六菩薩の金剛牙菩薩と同じであることからも、この明王が金剛界系の忿怒尊であるといえます。 訳名の金剛尽、金剛瞰食(がんじき、食らうの意)は、人の汚れた欲心を食らい尽くし真実の悟りに至らしめるというものです。 その図像において経軌は三面六臂像のみを説き、特徴は中心面が五眼(両眼二重、眉間一眼)を持つ忿怒の相、手に金剛杵と金剛鈴を持つ所です。
この金剛夜叉明王は五大明王の一尊ではあるけれど、独立した信仰で造像される事は少なく、有名な違例である醍醐寺・大覚寺・東寺・不退寺の塑像・画像はすべて五大明王の一としてのものです。
前記「大威徳明王」のところで平賀源内に触れましたが、その源内さんの意志を受け継ぎ日本の科学はおおいに発展しました。
●無線電話で海外の友人と話が出来る (ヘローヘロー。当たり)
さて、どうですか?当たったものも外れたものも、百年後の今に見ると、とても興味深いものですね。 参考文献 PHP文庫「歴史の意外な結末」
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烏枢渋摩明王(うすしまみょうおう) |
烏枢沙摩(うすさま)と記すこともあり、穢積(えしゃく)金剛・受触金剛・不浄忿怒・不壊金剛・火頭金剛とも称することから、世の中の一切の不浄や悪を焼尽する威力を示す明王とされます。
台密(天台系)では金剛夜叉の代わりに五大明王の一尊として配されますが、一般的に知られるのは不浄除けの独尊としてが多いです。 この明王は単独で多く信仰され、その為異像も数多く、蛇と髑髏を飾りとし上方に化仏をあらわすものもあります。 この明王のような威力を誇る粗暴な気質のことを伝法肌といい、時には侠気を感じさせる格好の良い性質として使われますが、元は浅草の伝法院という有名な寺の僧たちが寺の威光をかさに着てやりたい放題した所に端を発します。
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今の所はこれだけです。
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